デミウルゴスの憂鬱 1
ホログラフィック宇宙
2015-11-23
古来よりインド哲学では、この世は、マーヤ という幻であると説いてきました。
いわゆる、私たちの生きているこの世界は、現実ではなく幻影であるとのことです。
少し前に、マトリックス という映画が大ヒットしましたが、この映画もこの世界は、マトリックスというコンピューター言語で構成された仮想現実空間の世界であり、そこに生きる我々は、脳内への刺激により現実と錯覚させられた世界に生きており、実態は、現実世界の中で閉じ込められてコンピューターの電源として生かされているという設定でした。
実は、ホログラム理論という・・・まだ理論化されるほど構築化された説ではないのですが、これを支持する科学者は少なくなく、先端の物理学や心理学等では、この説を取り入れて学説を説明しようとしているのです。
それによると、宇宙も人間もホログラムでできており、我々の意識はその中で活動しているという話になります。
正に、マーヤの世界であり、マトリックスの世界を科学者がアプローチしようとしているのです。
マイケル・タルボット著の「投影された宇宙」 という本には、アインシュタインの弟子、デイヴィッド・ボームと、神経心理学の名著『脳の言語』著者、カール・プリブラムの説を中心に、様々な事例と研究を紹介しながら、この信じられないが真実を示している可能性を秘める宇宙観を展開しています。
著者自身も幼少の頃から、超常現象を体験し、それらを科学的に証明できないかを研究してきた方のようです。
つまり、このホログラム理論は、現代科学では証明できない、超能力や超常現象を説明できるのです。
尤も、それを実証するのは、超次元の証明を立証しなければならなく、これを現代科学で行うのは、今のところ不可能に思われます。
よって、仮説や理論といった空想上、もしくは思考上の科学でしか語ることはできません。
しかしながら、そこに至らないまでも、その可能性を示唆する様々な実験例が示されており、とても魅力的な仮説となっております。
反面、最大の反論或は逆説は、我々が、この世界を現実と実感していることにあります。
肉体を実感し、寒暖や、喜怒哀楽を誘う感覚、快や不快といった印象等、それらは現実感覚として我々は、実感しています。
これを嘘だ幻だと断定するのは、並みの経験では無理だと思います。
しかし、我々が生活の中で主に外界の情報を得るために使う視覚機能は、プリグラムによるとレンズによって映し出された象を脳が感知しているのではなく、外界の対象物から発せられた波動を脳が解析し映像化していると言うのです。
これは、ちょうどテレビカメラが対象物をカメラで写しそれを電磁波の周波数に変換し、アンテナによって受信したテレビが、その周波数を再び映像化するというシステムと同じだと言っています。
この映像を波形に変換したり、元に戻したりする数式が18世紀のフランス人、J・B・J・フーリエによって発見され「フーリエ変換」と呼ばれ知られています。
つまり、我々が認識している目に映る物体は、波動によって構成された信号だということになります。
ひも理論 によっても、細分化された素粒子の元は、振動する紐状のものであり、その振動が物質の性格を決めると考えられています。
こんなことがあるのでしょうか?
我々の目にしている物体は、波動であり現実ではない。
それを脳が現実として認識しているにすぎないという話です。
目以外で、物を視覚できる能力者は、この波動を目以外で感知し、脳が視覚化していると考えられています。
ところで、僕は、いつも不思議に思っていることがあります。
それは、色彩についてです。
我々は、様々な色を生活の中で使用しており、それらに様々な名前を付けて呼んでいます。
しかし、その色というのは、光の一面を反射しているにすぎないというのは証明されています。
光は、ご存じのように、いわゆる七色に分光されます。
そして、光の当たった物体がどの色を吸収し、反射するかによって、その物体の色が決まってくるわけです。
その結果、光が当たらない物体は色彩を放っていないわけです。
つまり、真っ暗の中では、色は無いというわけで、実際、明かりの無いところで、我々の目は、色を判別できません。
では、その物体自体を色は何色なんだろう?
という疑問が生まれるわけです。
色調とは、波長であり振動数です。
これを視覚化し、脳が解析映像化するわけです。
光のないところでは、色は存在しない。
同じく、何かの投射がないところには、物質も存在しない。
その可能性を感じます。
そこで、問題になるのが、その何かを投射してくる元です。
これを、「内存秩序」と呼ぶことにしているようです。
それは、超次元的な世界を意味しています。
この内存秩序と呼ばれる世界(フィールド?)では、すべてが繋がっていると考えられています。
ちょうど、ユング の言う集合的無意識 というのが、この世界に含まれているようです。
僕は、この内存秩序を、神話や秘教で語られる宇宙樹 やセフィロッテの樹 のモデルになっているのではないか・・・という気がしています。
つまり、我々個人は、樹の葉っぱの一枚一枚のようなものであり、その経験が樹の記憶となり刻まれていきます。
やがて葉っぱは枯れて落ち死んでいき、また新しい葉が芽生えるのですが、その本質は別のところにあるというわけです。
我々の意識は、生きているうちは葉っぱの方に存在していますが、無意識の領域では、樹の幹にあり、もし意識がそちらの領域にアクセスした時に、自己の領域を越えた別の記憶やビジョンに触れられるというわけです。
記憶は、脳に蓄積するのではなく、内存秩序に蓄積され、脳はそのアクセスに関わる器官だと考える実験結果もあるようです。
ホロクラム理論では、この世の常識や法則は、内存秩序からのプログラムだと考えられます。
俗に超能力者と呼ばれる人は、意識的に内存秩序にアクセスしてこのプログラムを書き換えられる術を知っているのだと考えられます。
そして、それは本来誰にでも内存している能力なのかもしれません。
民俗学的には、それを呪術とよんだり、魔術とよんだりしたのかもしれません。
我々が固く信じていることは、集合的無意識の領域で形成され真実として共有されます。
しかし、その常識を破り、パラダイムが起こった時に、世界は変容するのかもしれません。
世界を構築していくのは、我々の意識なのかもしれないですね。
星の王子さまの有名な一節にある、
「じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。」
もしかすると見えない世界こそ真実であり、本当にこの世はマーヤ(幻影)なのかもしれないですね。