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巡禮セレクション 59
2013年05月07日
大化の改新と三韓事情、そして乙巳の変と皇位
ちょうどNHKの歴史番組で大化の改新をテーマにしていました。
乙巳の変は、百済外交一辺倒の蘇我氏に危機感を持った、中大兄皇子のクーデターだという話でした。
番組よりポイントをメモしておきます。
589年、隋が中国を統一
618年、隋が滅び唐が建国
630年、唐は大陸東部の突厥を支配し、次の矛先を朝鮮島に向ける
当時の朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の時代
唐の脅威に対し、
新羅は、親唐
高句麗と百済は、反唐として手を結ぶ
642年、百済は、王子を倭国へ派遣。蘇我氏は親百済
644年、唐は新羅へ進出
唐へ留学していた僧たちは、反唐になることを危惧
645年、大化の改新、蘇我入鹿を暗殺
飛鳥朝から難波へ遷都、港に近く外交に便利
646年、新羅へ高向玄理を派遣
伽耶は新羅領だと認めるかわりに、人質を要求
651年、新羅の使者が唐の服を着て来日。倭国も唐化することへの危機感を募らせる
660年、百済滅亡
百済人が倭国へ亡命、再興を要請
663年、白村江の戦い
唐+新羅軍と戦い敗戦
唐と新羅は、高句麗を挟み撃ちし滅ぼす
新羅は、三韓統一後、唐に対して独立を求め争う
673年、新羅が訪日
当時の天武天皇は国交を回復
702年、唐と国交回復
滅ぼされた伽耶人や百済人は、日本で様々な思いで亡命したと思います。
その子孫も日本人として今、生きているのだと思います。
古事記の成立は712年
日本書紀は720年。
動乱の時代を終え、落ち着いた時に新しい歴史を刻んだのかもしれませんね。
さて、645年7月10日、乙巳の変が起こります。
当時の天皇は、女帝、皇極天皇です。
皇極天皇の父は、茅渟王。
母は、吉備姫王。
子に、漢皇子・天智天皇・間人皇女・天武天皇を生む。
乙巳の変の翌日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った。日本史上初の譲位とされる。
過去歴史になかった譲位を、変の翌日に行っているとは、計画的なのか、よほど恐れがあって、逃げたのか・・・
皇極天皇は、次の孝徳天皇(軽皇子)に譲位しますが、孝徳天皇の後に、再び斉明天皇として即位します。
そして、斉明天皇の後は、天智天皇と続きます。
乙巳の変の翌日、皇極天皇は、子の中大兄皇子(天智天皇)に皇位を譲ろうとしますが、当時仲の中大兄皇子は、19歳。
皇位を、皇極天皇の弟で、叔父の軽皇子(孝徳天皇)に推薦します。
ところが、軽皇子は、3度これを辞退して、古人大兄皇子へおはちを回します。
古人大兄皇子は、蘇我氏の血が流れ、時期天皇候補でしたが、乙巳の変は、蘇我氏を排除するために起こされたので、古人大兄皇子は、皇位を辞退し出家して吉野へ逃げます。
しかし、古人大兄皇子は、謀反を疑われ中大兄皇子に討たれます。
最後に、軽皇子は孝徳天皇として即位します。
軽皇子には、日本書紀によると
「天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。」と書かれています。
最初、中臣鎌足は、乙巳の変を起こすにあたって軽皇子に近づいたが、性格的に無理とみて、中大兄皇子を選んだといいます。
近年では、軽皇子が中大兄皇子を教唆して「乙巳の変」を引き起こした「黒幕」であるという説を唱える歴史学者もいる。しかし、軽皇子が即位して後重用したのは蘇我氏系豪族が多く、今後の議論が待たれる。
いずれにせよ、乙巳の変後の大化の改新以後は、以前とガラリと様変わりします。
元号も大化から始まります。
古墳建築に制限がかかり事実上の古墳時代の終焉です。
官位も変わり律令国家を目指します。
その方向性は、藤原不比等に引き継がれていきます。
テレビでは、乙巳の変の目的は、百済外交一辺倒の蘇我政治に危機感を持った者が蘇我氏を排除して、唐の脅威に対するバランス外交への変換だと結論していました。
しかし、なぜ皆が天皇になるのを嫌がったのかわかりません。
孝徳天皇(軽皇子)の後も、中大兄皇子は皇位につかず斉明天皇は、再び皇位に着きます。
斉明天皇の死後、天智天皇(中大兄皇子)の即位までは、6年程空位の状態が続きます。
何かが大きく変わったのは間違いないです。
もしかすると日本古来の天孫思想から、
この時期は中国由来の天帝思想の影響はあったのかもしれません。
天孫思想は、天孫降臨から続く血脈こそ王に相応しいという思想です。
天帝は、血筋よりも天の選んだ、天命を持った者が天帝として支配するのが好ましいという思想です。