【数理小説(1)】 『ヴェニスの数学者〜The Mathematician of Venice』
文系男「ほうほう、プライドの高い理系男子であるあなたが、この文系の私に、3000カッパーの無心ですか」
数学者「いかにも、海原に帆をはばたかせし我が船に投じたる私財を回収したれば、三ヶ月後に耳を揃えて返済できることは、火水土風を見るよりも明らかだ」
文系男「大仰な言い方ですな。私財を預けてあるわけではないでしょう」
数学者「預けているんだ。もう莫大な金額になるよ。次で取り返す」
文系男「要するに「競艇」での負けを「預けている」と呼び、勝てば「回収」と呼んでいるんですな」
数学者「ちょっとお!イメージを壊さないでよ」
文系男「あなたは預けてばかりではありませんか」
数学者「だから三ヶ月後のヤングダービーには必勝法を考えて臨むのでだな……」
文系男「いかに数学が賭け事に役に立たないかということがよくわかります。どうしましょうかねえ」
数学者「友よ、私が保証人になろう」
文系男「急に何をおっしゃるんですか」
数学者「いや、友よ。私がなろう」
文系男「首の向き変えて、別人のふりをしていただかなくても結構です。落語の上下じゃないんですから。要するに保証人になってくれる人がいないってことでしょう? それじゃあちょっとねえ」
数学者「ああ、そこをなんとか。背に腹は変えられん事情というものは誰にもある。だが、なんだって金には換えられるのだ。未来の金の価値でさえ、今の金にな」
文系男「あなたが私の悪口を言ったのは何度になりますかねえ」
数学者「十三回」
文系男「べつに答えてほしくて言ったわけじゃないですよ。まったく。これだから理系の人ってのはねえ。さんざん、文系は頭が悪いとか、あんなもん学問じゃないとか、たまたま人間が考えただけのものを研究してどうなるんだとか。合コンでもさんざんバカにされたじゃありませんか。もう理系の人といっしょに合コンに行くのはごめんですね」
数学者「あ、アレ、やっぱ根に持ってる? いや、理系と文系の溝ってのは埋まらないと思うよ。だからまあ仲良くしようとかそういうのじゃなくてさ、ビジネスライクに割り切ってよ。腹が減って困ってんだ。必ず返すから」
文系男「ふふーん。そうですか。ですがうちも商売だ。保証人なしというのを認めてしまうと、今後の金貸し業に差し支えが出てしまう。そこで、現物を貸し与えるというのはどうです? うちには家畜がいますからねえ。それなら用立てしましょう。三ヶ月後には、現在の家畜の市場価格に見合った額を払っていただければ、利子はいりません」
数学者「いいねえ。そうこなくっちゃ」
文系男「ただ、保証人がいないことについては……」
数学者「だから保証人がいないんじゃないの。保証人が俺なの」
文系男「数学者のくせに、ものわかりは悪いようですねえ。あるいは文系の私相手に詭弁ですか? ならばわかりやすいように言いましょう。保証人を立てるのは、貸し手側のリスクを分散するためにあるのですよ。ボラティリティーを下げると言えばいいですか? あなたが一人で責任を取る、というのであれば、物に頼る方法がありますな。担保、というやつです。ですがあなたから取り立てることが可能そうな資産なんて……」
数学者「僕の輝かしい将来性だな」
文系男「ほんとに数学では未来予測はできないみたいですねえ。いえ、独り言。ではあなたの持つ物はその身だ。払えないときは体で払ってもらいましょう」
数学者「え? 売春? いやん」
文系男「……あなたねえ、なに言ってんですか」
数学者「あ、マグロ漁船? やだよ俺、あんなの」
文系男「あれは大した金額にはならないんですよ。船から落ちてでもくれれば、生命保険の保険金が入るんですけど、あなた、命根性だけは汚そうですしね。それより、これから証文を取り交わしましょう。三ヶ月後に指定の金額を返済できなければ、違約金の代わりに、正当な利息込みの金額に相当する金と同じ重さ分、あなたの肉体でいただく、ということにしてもらいたい」
数学者「えー! いや、待てよ? 金に換算するなら、大した量にはならないか? いや、だめだ。あんたが好きな場所を選んでいいとなったら、心臓を選ぶかもしれない。いや、脳なんか選ばれたら、エラいことになる」
文系男「あなたの脳ならたいした変化はないと思いますがね。じゃあ、いいでしょう。体の部分はあなたが選ぶ、ということで。逆に部位を指定しないほうが私にも好都合です。「肉はとってもいいが、血は一滴も取るな」とかいった屁理屈をこねられてはたまりませんからね」
数学者「はーい。しめたぞ。一食分の値段なんて知れている。金に換算すれば数グラムだ。こりゃ、金で払わないほうがずっと得かもしれない。とはいえ、痛いのはいやだな。要はレースに勝てばいいんだ」
文系男「ではこちらへ」
数学者「おー。じゃあね、卵一つとね、ニワトリも一羽もらおう。いや、借りよう。あとは、ウサギをつがいでもらおうか。あれ? ネズミなんか育ててんの?」
文系男「実験用に売れるのでね」
数学者「あ、そう。可愛いから一つがい持ってこうっと。そんじゃあね」
裁判官「コホン。それでは、原告の主張をどうぞ」
文系男「はいはい裁判長。私はこの男に三ヶ月前、家畜を貸し与えたにも関わらず、それを未だに返してもらっておりません。よってこの男から、証文に従い、正式な取り立てをしたいと思うものであります」
数学者「あの頃妹が病気でひもじい思いをしていて、一切れのパンを食べさせようと……」
裁判官「被告人。勝手に喋るのはやめなさい。あと、話が脱線したついでに言いますが、法廷で嘘をつくと、偽証罪に問われますよ」
数学者「あ、バレちゃった?」
文系男「私が財産を盗まれた、その結果、今では貧しい生活を送ってます。一日五食しか食べられず、それも日本の最高級な牛肉なんて、週に三遍ほどしか食べられず、ワインも毎晩あけられるのは一本10ゴールドのものを数本のみ。100ゴールドのワインなんて、とてもとても。一週間に一本あけられればいいくらいです。最近太ってきて体の調子まで悪いというのに、医者を雇うお金がないので、せいぜい病院を貸し切る程度で……」
数学者「ちょっと! 言ってることがめちゃくちゃじゃないか! え? 一日五食とかで貧しい生活って。おれはこの人の飲むワイン一本を買うお金があれば、一年は暮らせるよ。医者を雇うお金って、医者は雇うもんじゃないし、そもそもあんたの体調が悪いのはどう考えたって食い過ぎだろっ!」
裁判官「被告人。今のは私もツッコミが必要だとは思っていたが、先程も言ったように、勝手に喋るのはやめなさい。今は私が質問する時間なのだから。はい、続けて、続けて」
文系男「はい。ですからまず、卵一個分をこの男に請求します」
数学者「かあーっ。金持ちなのにみみっちいねえー。金持ちだからかね。いいよ。卵一個くらい返してやるよ。あ、これ独り言ですよ。勝手に喋ったんじゃなくて独り言。独り言ぐらいみんな言うでしょ? 気にしなくていいですからね、怖い顔のおっさん」
裁判官「怖い顔のおっさんねえ。フフ」
数学者「コホン。さ、原告はつづけて」
裁判官「勝手に代わりに仕切らないように。(コホン、とやりかけてやめる)さ、原告はつづけて」
文系男「はい。次に証文に基づき、ニワトリを要求します」
数学者「ああ、あれフライドチキンにして食ったね。骨張っていてあんまりうまくなかったけれどね。はいはい、ニワトリ一羽分も返せばいいんだね」
文系男「あれは卵を産むニワトリでした。ですから、この男が殺して食べなければ、毎日に1個ずつ卵を産んだはずなのです。三ヶ月、十二週の間に84個分です。それを請求します」
数学者「なんだと! てめえ」
裁判官「被告は黙って。訴えが適切かどうかはこちらで判断します。今は原告の陳述をつづけます」
文系男「あと、ウサギの利子(としこ)と利息を貸し与えました」
数学者「なんという名前だ!」
文系男「つがいのウサギは子供を産みます。1週間に一つがい産む種類のウサギでした。最初の週はウサギのつがいが、1つがいを産みます。親子ともに2つがいになります。このウサギ、二週目には親ともに子供も子供を産みますから、2つがい産まれます」
裁判官「ああ、今度こそ私が聞くよ。ええと、ウサギはずっと子供を産みつづけはしないのでは?」
文系男「ええ。このウサギは一生に二回しかつがいを産みません。ですから、週に一度ずつ、いちばん若い世代と、その親の世代が、毎週1つがいずつ産みます。かくのごとくウサギが増えて行ったとき、十二週間目にはさていくつ?」
裁判官「どうなるかな、被告人? 計算したまえ」
数学者「なにが、さていくつ? だ。つまり1 1 2 3 5 …というように、後ろ二つの数字を足した数字が次の数字にくるんだから、 1 2 3 5 8 13 21 34 55 89 144 233 ということで、十二週目には233ペア……って、はあ? とんでもねえ数じゃねえか。そもそも、子供の分まで返す必要なんかねえだろう!」
文系男「「利子」と言うでしょう? 我々は友情で繋がっているのではなく、ビジネスで繋がっているのですよ。敢えてあなた流の汚い言葉を使わせていただければ、ビジネス相手のもっていたのは石女のウサギではなかった、というだけのことではありませんか?」
裁判官「他には?」
文系男「あと、ネズミの金子と高利(たかとし)を貸し与えました」
数学者「だからそのネーミング、なんとかならんのか!」
文系男「つがいのネズミも子供を産みます。1週間に12匹産む種類でした。最初の週はネズミのつがいが、子を12匹産み、合わせて14匹になります。二週目には98匹に」
裁判官「ああ、今度はずっとネズミがずっと生きつづけるのだね?」
文系男「ええ。かくのごとくネズミが増えて行ったとき、十二週間目にはさていくつ?」
裁判官「さていくつ? 被告人」
数学者「裁判長まで、もう。これはね、 14 98 686 …というように7倍ずつ増えていくんだから、2に7を十二週分かければ……276億8257万4402匹……って、ちょっとちょっと! ありえねえだろう!」
文系男「私に払うべき補償は、この男が証明した通りです。証文通り、これらをゴールドに換算し、その重さ分の肉体を払っていただく必要があります」
数学者「法定利息を無視してる。とんでもない暴利だ!」
文系男「法定利息が適用されるのは、金銭についてでしょう。貸与されたのは物です。抵当はあくまで補償なのです」
数学者「あ、そうだ。「肉体を取ってもいいが、命を取ってはいけない」とか言うんでしょ?言ってよ、裁判長」
裁判長「それについてだが、心配には及ばない。血は一滴も流れない」
数学者「ほらみろ。こんな証文、使えるもんか」
裁判長「これらの財をゴールドに換算すると、お前の体重は優に上回る。よってお前を切り刻む必要はない。お前の肉体はすべて、この男のものだ」
数学者「ええーっ?」
文系男「ほう、これが法というものなのですね。命は救われましたか。ですがあなたは、今日から私の奴隷ですよ」
かくして人肉裁判は終る。裁判官がやれやれ、といった顔をしていたことに、うなだれていた数学者が気がつく余地はなかった。
〈了〉
ver.1.0 2020/5/1
ver.1.1 2021/10/10