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わらしべカオス
すごろくと万華鏡と数学が好きだ。
共通点は?秩序と複雑さ。
まったくのデタラメ、というのは面白くない。それらが生み出すのはただの無秩序だからだ。毎度サイコロを振って出た数字を並べてみても、そこに意味を見いだせるのは陰謀論者くらいなものだろう。ホワイトノイズほど煮ても焼いても楽しめないものはない。
(余談ですが、夜中のテレビのホワイトノイズ(砂嵐ってやつ)、今は見れなくなりましたな。あれを見て「貞子」を思い出す人はまだまだで、『狙われた学園』を思い出すようでなくては)
逆に規則的すぎるのも、その規則の一つに感心することはあっても、先々の調和まで見えすぎてツマラない。私がアラベスクを楽しめるのはそのパターンの一つにであって、だったら日本の家紋を見ているほうがよほど面白い。(あ、エッシャーくらいに遊んでくれれば楽しくて仕方がないが)
無秩序と規則的なパターンには、中間がある。
万華鏡から行こう。私は万華鏡コレクターだ。
あれには種類がある。ステンドグラスが回転するのを覗き込むタイプの万華鏡、というのがあって、あれは同じ模様が回転しているわけなので、いつか同じ像に巡り合ってしまう。まったく同じ角度を作り出すのは難しいかもしれないので、その意味では無限に像があることにはなるが、所詮はステンドグラスの回転の角度だけで像が決まってしまう。面白くないのである。
私が好きなのはやっぱり、色のついた粒とか小さな棒とかが入っているやつだ。
無論、偶然の揺れによって像が変わってしまうから、毎回サイコロを振っているといえば振っているのだが、なんと説明すればよいだろう、毎度ゼロから像を作り出しているわけではない。今ある色とりどりの粒の配置から、万華鏡が回って次の配置に移るので、乱数とはいってもある程度「今」を踏まえたものになるのである。
パターンは次から次へと変わっていく。転じていく、と表現したほうがいいかもしれない。
私は将来お金を持ったら世界中のすごろくをコレクションしたいと思っているほどのすごろく好きである。すごろくはサイコロを用いる遊びである。ただ、今のマスから次のマスに行く、というところが、すごろく全体に向かってダーツを投げ打ったところに行くのとは異なる。
小さいころからよくやったのが、すごろくをサイコロを使わずにコマを進める一人遊びである。
まずはコマを、ふりだしから毎度1マスずつ進める。サイコロで1が出つづけたと考えればよい。「3マス進む」「2マス戻る」といった指示には従う。(「一回休み」は意味がないので無視する)
そうするとコマは行ったり来たりと面白い動きをする。
ただ、1つずつ進めると、すぐに無限ループに陥る。「ふりだしに戻る」があれば、そこから同じ動きを繰り返すからだ。
このループに入った時点で、次はサイコロで2が出つづけることにする。以下同様だ。3、4、5、6と上げていく。それでもだめなら、1、2、3、4、5、6の順番にサイコロが出ることにする。
こんなことをしていると、コマはダイナミックにマス目を行き来する。
ここに動きの複雑さはある。だが、手順を間違えていない限り、乱数の入る余地はない。もう一度同じ遊びを1から始めても、まったく同じ動きをコマはするはずなのである。そのような秩序を持っているくせに、先読みは難しい。結局コマを動かしつづけるしかないのである。
数学ではこのようなことを扱う領域がある。カオス理論という。「デタラメに複雑なもの」ではなく、「秩序だった複雑」を扱う理論である。カオスな振る舞いをするものは、初期値(いつの時点を初期値にしてもよい)のわずかの違いが、後には大きな違いをもたらすので、その現象をバタフライ・エフェクトなどと洒落た名前で読んでいる。
これは、夜の蝶がおねだりをした結果、老若男女が落語を作り始めることになる、ということからつけられた名前である。(アレ?違ったかな?)
先が読めないくせに、直前の状態の全てがわかれば、そこから次を読むこともできる。こういう、「今を踏まえて、次に繋ぐ」の繰り返しを私は愛してきた。しりとり、連想ゲーム、会話、連句、即興劇……
わらしべ長者は、持ち物が今を踏まえて次のものに交換されるのが面白い。記憶が確かならば、
わら → それに虫をつけたもの → みかんかなんか → 反物かなんか → もうちょっと豪華ななんか → 結婚
みたいな流れだったような気がする。成り行きすぎて面白い。
人生もまたしかりである。
noteでこちらに流れ着いて、書きました。