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◇不確かな約束◇ 第8章 下


また、馬場ホルにいた。

あれから毎月、旭川に通うようになった。『けもの道場』の後は皆で会場から少し歩いて馬場ホルモン、通称馬場ホルに行くのが決まりだ。
火鉢に墨が入れられて、皿に盛られているどこの部位だか一見解りにくい一まとめの肉を焼く(まあ職業柄、どの部位だが解ってしまうのだが)。他のメニューは瓶ビールがあるくらいで、ごはんさえコンビニで買って来て持ち込まないと食べられない。あらかじめ肉に付けられている塩味が絶妙で、座敷で学生から観光客までが密集する中、煙にまみれながら食べるというのが、私には合っていた。亀山先生の好みのようだ。

宝来亭にもしばらく行っていなかったが、私にはこういうもので自分を支えることが大事だったのだ、と思い直した。こういうものってなんだろう。美味しいもの。肉。あるいは大衆的な感じ。この通りにある他の店舗がどれも昔にシャッターを下ろした中、この店が生き残っていてくれたことが嬉しい。

店では亀山先生がよく喋った。皆が聞き入っているが、たまに意見する人がいる。すると亀山先生の、曖昧さを一切許さぬ質問責めが始まる。そこに、腰の曲がった快活な店主が割り込んでくることがあった。専門用語など一切理解しないであろうに、店主は自分の人生論などをぶつけてくる。亀山先生がそれに対し、とても楽しんで受け応えをする。おばあちゃんを相手に質問責めにするようなことはなく、必ず彼女に華を持たせた。紳士だ。

店主が去ると、私は意を決して、亀山先生に自ら質問してみた。

「先生は、『動物相手に、先を行き過ぎた対応をするな』と、『今どこまでのことができるかを見定めて、半歩だけ先を促せ』と、よく言いますよね。どうして人間に対しては能力をはるかに上回る質問や無理難題を出すんですか?」

言ってやった。やっとね。
すると、いっしょに来ている動物園の飼育員や動物看護師といった人たちが「うああ、松井先生。よく言ってくれましたー!」「あっぱれ!」と囃し立てた。
だが私は真剣であった。亀山先生も真剣な顔をしてから、私の顔をまっすぐに見た。

「質問の立て方が間違っとるな。そういうものには答えようがない。もひとつおまけのヒントをやる。無駄な褒め方は虐待と同じ。」

亀山先生は少しも揺るがなかった。私はわざと唇を尖らせた。なんだか自分が、子供がえりしているような気がする。ええい、どういう意味かもっとはっきり説明させてやる。

「曖昧でよく解りません。」

亀山先生のよく使う言葉で応酬した。また囃されるのかと思ったが、今度は皆静かになっていた。


あのあとどこをどう歩いたのかはよく覚えていない。気づいたら馬場ホルの近くの、大きな池のある常盤公園のベンチに一人でしばらく座っていた。深夜だが、落ち葉の合間を縫うようにローラーブレードで遊ぶ高校生らしき人たちがいた。秋風は吹かなかった。

先ほど亀山先生に言われた言葉を思い返している自分がいた。しかもそのように思い返すことまで、亀山先生は予測していた。

「松井先生は反芻動物だから。」

勝手な決めつけをいましめる亀山先生本人は、よく決めつけた。ただ、ハズさないだけだ。
反芻動物とは、牛やキリンのように、胃の中に飲み込んだ食べ物をまた口に戻しては噛み、また胃に戻すということを繰り返して消化する動物のことだ。ここでは、『一度言われたことを何度も頭の中で蘇らせてはそのことについて考える人種』のことを指す。彼独自の喩えだ。

「まず曖昧ってのが違うから。シンポジウムのディスカッションなんか聞いていると、ほとんどの専門家気取りが、意図せず曖昧な表現をしているから。俺は意図的に言葉をシンプルにしているの。手抜きと簡潔では大違いだから。」

相変わらずビッグマウスだ。実力はそれに伴う。

「それを踏まえた上で、今日は大サービスで言うけれどねえ。先生もこの質問は、『けもの道場』に来た初日から抱え持っていたでしょ。ずっと聞きたかったんでしょ。じゃないと、今の話の流れからしても不自然だもん。」

ずっと聞こうと抱え持っていた。人間のこともよく観察しているヤツなのだ。

「結果を考えてみな。どうせ今の質問は地方会の時の俺の質問のこととかを言っているんだろうけれどさ、反芻動物の先生はあれから考えつづけたし、ABモデルのこととかも調べて勉強もしたよね。ってことは、俺が高い要求水準をつきつけたことは正しかったわけでしょ。だから道場まではるばる来るようにもなっているわけで。あなたみたいな人に、『よくできまちたねー、パチパチパチ』とかやってもそれは毒にしかならんわけよ。でもこのパチパチを本気で喜ぶ連中とかいるからね?仁原とかさ。だろ?」

だからうちの教授を名指しで悪く言うのはやめてほしい。この場にいる私は裏切り者みたいになってしまう。でも痛快なんだけれど。

「そうですね。」

ああー、裏切り者確定。


いや、思い返すのはそんなことではない。亀山先生は、私のことをよく見ていたんだな、ということだ。私だけじゃないかもしれないけれど、権威とか経験とかをまったく無視して、フラットにフェアに、動物のことも人のこともよく見ているんだ。

全然関係ないけれど、亀山先生はごはんをきれいに食べた。



小さな柴犬のキーホルダーがカチャと鳴った。
バッグにつけてある。

白黒のシュシュを身につけるには
髪はもう短すぎる。


空を見つめて、ゆっくり息を吐く。


ホテルではあまり眠れなさそうな予感がする。
今から目を瞑って数字を数える。


イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ...


竜也のことは
反芻したい。
生きてはいないけど。



シュウとのことは
思い出として反芻してはいない。
ただ、来年どうしよう、ということを
面倒ごとのようにさえ思っている自分がいて
息が詰まった。


「準備...」


呟いてみる。
私は自分の人生の決断をするために
時間をもらって準備してきた。

シュウはどうだろう。
今頃船の仕事をしているだろうか。
私に会う際の心構えを決めているだろうか。


ただ、こうも思う。
私はその前に、別れる準備を、シュウにさせなかったかもしれない。
いや、させなかったんだけど。

回復の進まない動物と同じように、
シュウの時間が
まさかそこで止まっていたらどうしよう。

私が成長しても
そんなシュウを負えるだろうか...



私の決断は
もう今からしなくてはいけない。
シュシュをつけるには
今から髪を伸ばさなくてはならないから。



***



新年を迎えた。寝るだけの場所に近い私の部屋にも、年賀状が届いた。

旭川保健所に勤めた由梨加は、なんとまさかのできちゃった結婚をしたという。今、4ヶ月だ。マジか、連絡しろよ、と思ったが、むしろ素通りしていたのは私のほうだ。毎月旭川には行き、ビジネスホテルで一泊して帰っていたのだから。

次に美咲さんの名前を見て心が躍った。私も獣医として頑張っていることを年賀状で伝えてある。


《ユキちゃんへ。昨年はゴローも亡くなり...》


私は深呼吸した。

そうだ。ゴローはもう老犬だ。いつ亡くなっても不思議ではなかった。


竜也、と口にしていた。


私は立ち上がった。人に会おうと思った。
鏡台に映る自分の髪を見つめた。



***


第9章へつづく


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