群像劇、好きです(作るほうだけどね)
死者を中心に据えた群像劇を書こうと思っている。そんな矢先、この本に出会った。
(それにしても河出書房さん、この読書感想文企画には2冊だけ推薦と控えめ。それも木皿泉さんに絞り込んで。いい本を選んでくれてほんとありがとうございます)
私は即興劇をやっているが、その中でかなりよくやるものに " ピクチャーズ " と呼ばれるフォーマットがある。
まず場所を、例えば公園なら公園と決め、そこで関係のない数名がそれぞれの過ごしているシーンを描く。次にその誰かの生活が描かれる。それが終わると、組曲『展覧会の絵』のプロムナードのごとくまた最初の公園の同じシーンとなる。以後、また別の登場人物の生活、公園のシーン、と繰り返していく。
芝居で群像劇を描く形式は他にもいろいろあって、私は今井敦氏の、群像劇専門のワークショップでお世話になっていたので、しばしばそういったものを仲間と演じ、群像劇について考える機会が多かったのである。
読む側・観る側というだけでなく、創る側、それも即興で次々と演じていくと、「群像劇」の本質のようなものが、体感で身に付いたような気がするのだ。
その体感でもって語ることを許してもらえれば、群像劇は皆同じテーマを持っている。それは
「みんなそれぞれ生きている」
だ。
先に挙げたピクチャーズは、まさにそうだ。関係ない人々が、たまたま同じ場所にいるという縁を持ち、それぞれがそれぞれの生活を送っている。それぞれ独特の生活は外からは分からず、ほんの片鱗を公の場で覗かせているのだ。
群像劇にはもう一種類あって、一人の人間に関わった複数の人間の視点を通して、その一人を描くというものだ。言わば図を書くことで、地のほうを浮かび上がらせるというものだ。
この形式は、厳密には群像劇ではないのかもしれないが、それでも一人の人物から派生する物語が他者から語られる際に、語る人物にも焦点は当たる訳で、本来の群像劇と似てくるのである。
この『さざなみのよる』も、人物を他者視点から浮かび上がらせていく話だ。『彼女が死んじゃった』『市民ケーン』同様、描く人物の死をきっかけに物語が広がっていく。一人の人間の死は、複数の様々な人々とのエピソードを糊付けするのに格好の役割を果たす。
主人公ナスミは、多くの人に共有されている像とは別に(それはわずかなものだ)、共有されていない部分を多く持っている。それは身内や、同僚や、元彼モドキといった人々とそれぞれ共有されたナスミだ。「私しか知らないナスミ」が「私」ごとにたくさんあるのだ。
これはいろんな種類の知人がいたり、複数の活動をしている人なら皆そうだろう。自分も大学生の頃、親には自分の活動を知らせない子であった上に、まあ手広くいろんなことをしていたので、「今死んだら葬式にバラエティーに富んだ人々が次々と集まって、親がびっくりするだろうな」などと思ったものだ。
ちょっと死から離れよう。死まで持ち出さなくても、自分が後にしてきた場所というのもたくさんある訳で、そこの人々に久しぶりに会うと、かつての自分については話を聞く機会になる。
自分が忘れていたエピソードもあり、案外自分のことが人の記憶に残って少なからぬ影響を与えていたものだな、と感心する。感謝されることもある。恨まれることも…そりゃあるわな。笑い飛ばせる話が多いと良いが。
最近、ナスミと同じように、私も生まれ故郷に帰ってきた。懐かしい人たちに会う中で、自分の絡んだ物語が少しずつ蘇ってきている。
とくに、実家の近くに住んでいるので、家族もよく両親と顔を合わせる。私が居ない間に母が妻に、私の小学生の頃のエピソードなどをこっそり語っているのである。
(一例を挙げると、学校の宿題で書いた「一日の予定表」に「勉強時間」を入れずに怒られ、翌日、二十四時間すべてを勉強時間にして提出した、といった話とか。そんなことこっちはまったく覚えてないわい。本当かね?)
勝手に話されると困るんですけどネ。娘も聞いているだろうし。
さて、私は自分が故郷に戻るなんて思っていなかった。子供を育てることになるとも。
時代は進むのだ。また、人は死ぬこともある。
濃く生きて、ほんの少し早く死んだ主人公に向かって「私も生きている」と言おう。どうやら、そのようであるから。