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キリストの磔刑:人々の犠牲となる光
十字架に磔にされるイエス・キリスト。その犠牲の姿はキリスト教にとどまらず、さまざまな神話や物語にも似たものが見られる。
古今東西の物語の普遍的なテーマを論じさせるならやはりユング先生で、彼はずばり「キリスト元型」なるものを論じている。あいにくその本が手に入らなかったので、いっそ自分なりにキリストの磔刑のテーマについて語ってみようと思う。
自己を犠牲にする物語で古いものといえばやはりプロメテウスが代表だろう。
キリストが人々に救いをもたらしローマ帝国に睨まれたように、プロメテウスは人類に火をもたらし神々に睨まれ、山に磔にされた。鷲に肝臓をつつかれるが、それはキリストがロンギヌスの槍で突かれた部位に近い。プロメテウスの肝臓は次の日には元どおりになる(だからまたつつかれるのだが)から、これは復活のテーマに通ずる。
おや、早々に元型どころか原型とも思われそうなストーリーを見つけてしまった。
だがもう少しこの構造を探していこう。今度はキリストの後の時代に目を向けてみたい。
実は「代受苦」という言葉がある。仏教用語で、人の代わりに苦しみを受けることを言う。なんと、キリストが十字架にかかったのと同じ人類救済のための受難ではないか!
この犠牲は、神道にも関わってくる。本地垂迹説により、日本の神様はインドの神様の化身ということになっており、天照大神は大日如来と同じ扱いでる。とある寺に天照大神が蛇として描かれた図も秘されているらしく、天照大神もまた代受苦を為す神様とみなされているらしい。
古事記の成立時期などを考えても、日本神話のほうが新しいと思われる。だから話の多くは大陸の物語から派生した可能性もあろう。
あるいは同時多発的に類似の構造の物語が生まれた可能性もある。私はそっちの説は取らないが、そんなことはいい。それよりもこれら物語の本質的な点についてである。
これらは闇と光の物語だということだ。
闇と光というと、悪と前の戦いを思い浮かべるかもしれないが、これはそうではない。同時に対立する闇と光ではなく、闇の時期を経て光の時期を迎えるという話である。
たとえばプロメテウスが授けたのが火や文明(おお! 明るいという字を含んでいる)であるし、天照大神は太陽の神である。
またイエス・キリストの誕生日ということになっている12月の暮は冬至の頃である。もっとも太陽が照る時間が短いところから、長くなっていくところに転じる時期である。
須佐之男命のやんちゃで天照大神天の岩戸に隠れるが、これは磔刑の瞬間空が暗くなるシーンに類似しているように思えてくる。
すると天の岩戸は単なる日食の話ではないかもしれない。日食でもよいがそこには象徴的な意味がある。
希望だ。
じゃあパンドラの話とも通じてくるか。彼女が渡された箱(本来は壷らしいが)の奥には希望があった。
そういやパンドラって、プロメテウスのしたことにゼウスが怒って作り出された人類初の女じゃなかったっけ。
他の命のために自分の身を犠牲にし、やがて世界が光に満ちたものになる。ああ、それって女性の妊娠と同じじゃないか。
生きるということはだれかの犠牲の上に成り立つ。その苦しみに思いを馳せようね、と。そのとき私たちはそこに闇と光を見出すだろう。
パンドラは生まれてきたことから箱を開くまですべてをゼウスに仕組まれた。プロメテウスは火を配るまでは自分の意思であった。キリストは?
彼の言い分に従えば、磔刑から復活まですべて想定内であったそうだ。
人の世でだれかの犠牲がつきものであるならば、願わくばその犠牲が当人の意思によるものであってほしい。我々人類が他人に尽くすことを選び得る存在であってほしく、犠牲になりすぎることもなく、誰かが払った犠牲には敬いと感謝の念を抱く存在であってほしい。
それが希望だ。その希望を叶えるのは、ゲーム理論や行動経済学といった理屈ではないかもしれない。心を揺さぶる物語なのではないだろうか。
宗教はそのためにあるのだろう。宗教でなければ、文学やアニメやゲームがそれを伝えるのではないだろうか。
キリストの磔刑の構造の物語は今日もどこかで紡がれ、語られている。