バガヴァッド・ギーター
物語では、世界を壊す者である「破壊者」(destoryer)がもてはやされる。シヴァやカリ、スサノオといった破壊神と呼ばれるような神々は神話内では煙たがられてはいるものの、多くの人々の信仰を集めていた。
歴史では革命家や征服者などが、国の破壊者である。こちらも尊敬の対象となる。
人が破壊者を推すのには、破壊に意義があるからだと考えられる。それはなにか。
破壊とセットになっている再生であろう。破壊者的な存在が新しい時代を築いたのだ、と評価されているということである。
時代の停滞・行き詰まりから新しい時代への変化を迎える余地を作るためには、古い時代のものは壊さなければならない。
破壊神や革命では現代には少し大げさにも思われるので、芸術や文化の話にしよう。アバンギャルドやカウンターカルチャーといったものが登場すると、それらが披露される場所や携わる人材がそちらに割かれる。既存の価値観も打ち破り、既存のものを「古い」ものに変えてしまい、人気も下げることになる。その意味では「破壊」しているので、これらも破壊者といえる。
技術革新も一見良さげなものに思えるが、市場や社会に与える影響を考えると破壊者である。電気の登場はランプ屋を追いやった。今はAIの登場が多くの職を脅かそうとしている。
ここで話を個人に向けてみる。個人もまた、自分の過去の破壊者である。自分自身が変わる、ということが人生である。それは古い考えややり方を脱ぎ捨てることになる。
逆に言えば、新しいあり方へと一歩を踏み出すためには過去のなにかを破壊する必要があることになる。すると「破壊」という言葉に抱く負の側面、恐れ・悲しみといったものもついてくる。創造性や成長には、やめる・捨てる・あきらめるが欠かせない。
また、変化を求めることにはリスクもある。変化が常に良い変化だとは言い切れないからだ。これまでのやりかたを続ければ、最低限それまでの秩序が保証されるのにそれを手放すのは、保証のない未来を恐れることとセットになる。
ここに保守と革新の対立が起こる。しばしばどちらかが極端になることがある。両方が極端になれば対立は激化する。
これは社会の中の二分される勢力としても言えることであるし、個人の中で起こる葛藤でも言える。
破壊の動機は「行き詰まった過去」への「忌避・拒否」といった消極的なものと、新しいものへの「希望・切望」といった積極的なものとがある。
保守になるのは未来への「恐れ」と過去への「愛着」といったものが考えられる。
個人と社会の進歩のためには恐れすぎないこと、愛着しすぎないことが大事だ。恐れすぎ、執着しすぎると、成長はない。
迷える人は、バガバッド・ギーターを読むといい。アルジュナの迷いは、踏みとどまるあらゆる人に通じるものだから。