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【数理小説(13)】 「ペアノの公理」

 日曜日の益間家のこと。先ほど小学一年生の量子が母の文から、「レディーなんだから、部屋ぐらいきれいにしなさい」と注意を受け、「男とか女とか関係ないもーん」と反論していた。
「ジェントルマンでもおんなじこと。たしなみとして、きれいにしなさい」
 文はなんとかそれで量子を言い負かし、量子はしぶしぶ応じた。文は自分なりに、なかなかうまい言い方をしたものだとほくそ笑んでいた。そこに三年生の幾代が現れた。
「ほら! 幾代も、片付けなさい。レディーでしょ」
 だが幾代の反論は、妹のものとは違った。
「ねえ、レディーってなあに?」
 幾代はたしかその言葉を知っているはずではないか? レディー戦隊マリンピュアというテレビ番組を今朝だって見ていたはずなのだ。煙に巻こうという作戦かもしれない。文はここは適当に答えておくに限ると思った。
「みんなレディーよ」
 だが幾代の追求はそれで終らなかった。
「みんなってだあれ?」
 まったく小さい子はこういう面倒な質問をして、と文はイライラしはじめる。その上娘たちはだれに似たのだか、理屈っぽくもある。
「みんなってのはみんなよ。幾代も、量子も、お母さんも、美子おばちゃんも、みんなレディーよ。だから片付けなさい」
「ふーん、それしかいないんだ」
「それしかいないわけがないでしょう。陸子ちゃんだって、海ちゃんだって、レディーよ。だからみんなって言ったでしょ」
「ふーん、じゃあお父さんもレディー?」
 こいつ、やっぱり解っていて言っているな、と文は確信した。
「お父さんがレディーなわけないでしょ。男なんだから。女がみんなレディーなの」
「女ってなあに」
「女は女でしょ! あたりまえのこと聞くんじゃないの!」
「女は女でしょって、それってなにも答えていないのと同じだよ。説明になってましぇーん」
 癪に障る娘だ、と文は思った。
「女は女なの。『弱きものよ、汝の名は女なり』なの。あんたも量子もあたしも、美子おばちゃんも女。OK? もういいでしょ」
「よくないもーん」
 文が「幾代!」と怒鳴りかけた瞬間、台所でパイを切り分ける途中であった理が、居間へとかけこんできた。
「どうしたんだ? いったい」
「レディーってなあに? ってお母さんに聞いているんだけれど、納得のいく説明がないの」
「はあ?なんだって?」文が鬼のような形相になる。理が二人の間に割って入った。
「まあまあまあ。落ち着いて。文は、なんらかの説明をしたんだろう?」
「あたしと、お母さんと、量子と、おばちゃんと、海ちゃんと陸子ちゃんがレディーって言っただけ」
「それで説明としては十分でしょ!」
「6人で十分なの? レディーはこの世で6人だけなんだあ」幾代が意地悪そうに言った。
「それで解るでしょ。あんたはどうせわざと解んないふりをしているんでしょう!」
 母親が怒鳴ったので、幾代は父親の背中に隠れた。
「ママの説明の問題だもーん」
「どうしてそういうこと言うの! まったく」
 理は頭を抱えた。これは後々文が不機嫌になり、理を責め出すことになるパターンだ。
「あんた、なんとか言ったらどうなのよ!」
 ほら来た! と理は思った。
「えーっと……つまりレディーをどう定義するかという問題なわけで……」
 文は理の話を遮った。
「だから女の例を挙げていった。それで十分じゃないの。それともあたしとかがレディーじゃないっていうの?」
「いやあ、レディーの集合の要素であるということは正しいよ」
 文は理を睨んでいる。
「正しいんならいいじゃないの!」文のいら立ちがおさまらない。
「だけど、6人ではすべてのレディーを説明したことにはなっていないわけで……」
 理は文の顔を見て、露骨に否定してはまずいと察した。
「ええっとね……つまりね、すべてのレディーを漏らさず、かつレディー以外のものを含まない集合を定義すれば良いわけだ」
「はあ? そんな説明ができるの? なんなの、それ?」
「あ! こういうのはどうだろう。『イヴ』はレディーだ」
 理は四角いカードに、『イブ』と書いた。
「はあ? あんたはレディーの仲間にたったの一人を増やしただけ?」
 理は文に何かを言われるたびにびくつく。
「ふん、まさか世界中のレディーを列挙して行くわけじゃないでしょうね」
「世界中のレディーだけじゃだめだもん。古今東西、さらには未来のレディーまで入ってなくちゃだめだもーん」
「そんなの何人いると思ってんのよ!」
「何人って有限じゃないもん。可算濃度の無限だもん」
「無限なんてますます全部定義できないでしょ。あんたはよく解んないこと言ってるけど、要するになにがレディーか解ってて言ってるんでしょ!」
 理の話はまだ途中であったにも関わらず、文が割り込むわ、幾代がさらに火に油を注ぐような挑発をするわである。あわてて先を続けることにした。
「いやいやいや。ちょっと待ってくれ。その、もちろん僕の説明はこれだけじゃないよ」
「じゃあなんなのよ。あたしも納得させなさいよ」文がからむ。
「……ええと、この『イブ』をはじめとして、あらゆるレディーに『の娘』をつけたものもレディーだ」
 そう言って理は、『の娘』と別のカードに書いた。さらに何枚も同じカードを作った。
「ハア? なによこれ」
 文はカードを取り上げ、それからテーブルの上に放った。
「いや、これで十分だ」
「あ、本当だ。全部の女性がレディーとして定義されている」
 幾代が感心したように言った。文がまだよく解っていなかった。
「はあ? どういうこと? あんた今まであれほど納得しなかったのに、この変貌ぶりってなんなのよ」
 文が言う。幾代の代わりに理が応じた。
「文。さっきも言っただろう? すべてのレディーを漏らさず、レディーでないものも入らない」
「なんでよ。たとえばあたしがこれに含まれるって言うの?」
「だから含まれるんだよ」
「あたしはイブの娘じゃないわよ」
「だから『『『『『イブ』の娘』の娘』の娘』の娘』……とずっと続けて行くと、いつかお前にもなる」
 理は次々と『の娘』とカードに書いては並べていった。
「めんどくさいわねえー。そんなのいつになるか判らないじゃない」
「だがいつかは定義される。お前もまたレディーの娘であり、よってレディーであり、幾代もお前というレディーの娘だからレディーだ」
「あたしはレディーであるお母さんの娘だから、レディーだ。でも、お母さんより若いレディーだよ。お母さんは私よりも年寄りレディーなの」
 文は今までとは別の理由で娘を睨んだ。
「いずれあんたたちも親になんのよ。たぶんね」
「でもお母さんの娘より、あたしの娘のほうが若いレディーなの」
 文は娘が自分のことをわざわざ「お母さんの娘」と言うのを聞いてまどろっこしく思ったが、理は「ああ、大小の概念も理解しているのだな」と秘かに感心していた。
「で、説明はこれでいいってこと?」
 文のトーンがやっと下がってきた。理は少し安心して調子づき、続けた。
「そうだよ。これで丸く解決だ」
「無限にいるレディーは……」
「無限に定義されたんだよ」
 文はなんだかうまいこと煙に巻かれたような気がして、すっきりしなかったが、幾代のほうはすっかり納得したようであった。
 理としては、すべてをうまく説明できたと満足していた。
「レディーとは娘のことだって言えば良かっただけなのね。はいはい、お母さんが悪うございました」
 まずい、すねている、と理が思った上に、予想した通りに幾代が言った。
「イヴは娘じゃないよ。架空のものの娘もレディーになっちゃうから、その答えはダメー!」
「なんなのよ、それは」
「ああ、つまりだね、まずイヴだけはだれの娘でもないと。あと、単に「娘=レディー」としてしまうと、『『椅子』の娘』とか『『ユニコーン』の娘』とかもレディーになってしまうわけだ」
「なんなの? あんたたちのその理屈っぽさ、厳密さは。うちの親子の会話はどうしてこうなの? めんどくさいったらありゃしない。とにかく、解決したならさっさと部屋を片付けなさい」
「え、えーと、そうだね、幾代、ママの言うことをきこうね。というのは、イヴはレディーのたしなみとして、部屋を片付けた人なんだ。それで、部屋を片付けるたしなみのあるレディーは、その娘にも部屋を片付けるというたしなみを教えるものなのだよ」
 理は文の機嫌をとろうと必死であった。その思いは、娘に通じたようであった。
「そうか! じゃあ、すべてのレディーは部屋を片付けることになるね。わかった!」
「はあ。よかったな。部屋を片付けるってさ」
「まあ、そうだけどねえ……」
 文の本音は、娘たちや夫の理屈っぽさが頭に来るというよりは、自分ばかりが話についていけない寂しさがあるということ、さらには娘たちが変な育ち方をしていじめられたり大変な人生を送ってしまわないかということがちょっと恐いなということであった。だが、自分がどうこういったところでどうなるとも思えず、娘が部屋を片付けるのならそれでよいか、と思い直した。
 姉妹は部屋を片付け終わると、いっしょに「いっぽんでもニンジン」という歌を歌い出し、それから量子が父のほうにかけてきた。
「ねえ、パパ。「ママの娘」ってひとくくりにしちゃったけど、あたしもお姉ちゃんも娘だよね。あと、娘のいない人もいるよね。なんとなくすっきりしなくない?」
「アハハ、まあそこは目をつぶって……」
 理は、たじたじになりながら妻に助けを求めようとし、やっぱりあきらめた。

 〈了〉

Ver.1.0 2021/1/15
Ver.1.1 2021/10/13

益間家の登場する数理小説はこちら。

文が若くてイケイケな頃の話はこちら。


また、前回の数理小説はこちら。


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