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◇不確かな約束◇ 第8章 上
今頃ポプラの木が芽吹いているのだろうな、と思った。
いや、外は通って歩いて来ている。だが、まともにそれらを見る余裕はなかった。
私は今、北海道大学動物医療センターの「臨床研修生制度」の下研修を受けている研修医だ。
研修医である以上、獣医師ではある。しかも、勤務しているとはいえ、なんとこちらがお金を払っている。世の中の人は、仕事をするのにお金を払うなんて言ったら、「どんなブラック企業にお勤めですか?」って聞くだろう。ほんとお母さんすいません。一人前の獣医を作るには、10年はかかります。それでもペイペイです。
10年、か。
北海道に来てすでに6年が過ぎた。それまでに私はわずらわしいので髪をショートにし、眼鏡をかけるようになり、「先生」と呼ばれるようになった。月日を考えると、あの、シュウとの約束を意識してしまう。彼にあの 〈 Promised Place 〉 で会うのは来年だ。それまでに、私が独り立ちできてはいないのは確実だ。そういう想定はしていた。だから修行中の身で彼に会うこと自体は構わない。ただ、この忙しさが続くと、1日休みを作って東京まで行く余裕が自分にあるのかさえ怪しくなってきた。いや、さすがに1日くらいは大丈夫だとは思うが。いや、それは来年考えればいい。
学生のときも、私の場合は忙しかった。本気で勉強に打ち込んで手を抜かなかったから。そうすると決めていた。何かを急いでやったところで7年は7年であったのだけれども、その7年という区切りが私を頑張らせた。
ところが、やればやるほど、私は獣医学をもっと真剣に学ぶことを目指すようになった。だから7年は、私にとって通過点の一つでしかない。それでいい。
自分の中では、学部時代の解剖が一つの通過点であったような気がする。あ、これでもう私は一般人とは違うな。引き返せないな、そう思った。それでもやめていった学生もいた。さすがに研修獣医生活の真っ只中にいる私が、昔の彼氏と会ったからと言ってもうこの道を離れるという選択肢はないだろう。めちゃめちゃ勉強は大変なくせに、動物関連の仕事以外に潰しはきかない学部に入ってしまったし。
入学したばかりのことを思い出す。たしか、なにか息苦しかったような気がする。今はどうか。忙しすぎて、ただそれだけだ。落ち込む暇がない。家とセンターを往復して、朝日も夕日も見ることがない。歩いて帰れる距離のマンションにいるからいいが、これが地下鉄に乗る必要があるならばほぼ終電は逃しているだろう。
「臨床研修生制度」の研修生は各教室に所属する。私は内科の仁原教授の内科教室にいる。指導教授に仁原先生を選んだのは、教室の研究テーマのひとつに、漢方による治療があったからだ。動物医薬品の大手メーカーの職員も招き、産学官連携の漢方の薬理学の研究が進められている。
「……以上より、門脈体循環短絡症のゴールデンレトリーバーに対し、漢方薬による治療、もしくはその併用によって、副作用を軽度に抑えることができました。」
学会の地方会の発表は、ほぼ教室の研修生の義務だ。業務が忙しい中、発表の準備も進めて来た。今年の地方会の開催は帯広であった。久しぶりに札幌を出られ、一泊できるのはちょっとした息抜きだ。もっとも大役を終えるまでは気が気ではないのだが。
発表内容は、上の先生から割り振られる。私は、どういうわけか引退間際の准教授のおじいちゃん先生にうまいこと気に入られ、じきじきに学会発表の指導を受けられるということになった。研究発表の論理展開からスライド作りに至るまでののイロハを丁寧に教わる。教室内の予演会も、難なくクリアし、発表当日まで驚くほどにスムーズにいった。いよいよ演者席に立ち、本番の発表も、10分ぴったりで終わらせたところだ。
「では質疑応答に移らせていただきます。ご質問のある方は、挙手を願います。」
座長の先生が、学会お約束のセリフで質問を募る。
「はい、亀山先生、どうぞ。」
気のせいか、一人の先生が指名されただけでフロアがざわついた。亀山?すると色黒の男が、座ったまま声を挙げた。
「あのさあ、門脈体循環……」
「亀山先生。名前と所属をお願いします。」
「名前って、今あんたも亀山って言ったじゃねえか。」
獣医師は半分ふざけ、半分ふてくされたように、「旭山動物園の」と付け加えた。
旭山動物園。大学でも、そこで働くことを夢見る学生が何人かいた。残念ながら最近は大学に直接獣医師を募集する案内は来ず、旭川市の獣医師募集に応募する必要があった。それに応募した同期の由梨加は、結局保健所勤務になったと嘆いていた。行動展示といって動物の生態をわかりやすく見せる、今や日本でいちばん有名な動物園だ。たしかに獣医師としてあまりにも魅力的な職場である。
「そのさあ、シャントがあると薬物の代謝が充分にできない、っていうのは飽くまで理屈なわけよ。だけど、そのシャント自体が問題になったことは病前から何もないわけでしょ。んなもん、薬減らす必要も漢方使う必要もないよ。」
平たく言えば「あんたたちがやったことは無駄」だ。だが私は、どう応じるかに迷った。亀山先生の発言は質問の形式を取っていなかったので、「はあ」とでも言えばいいのだろうか。だがひよっこ獣医だから彼の言わんとしていることさえ理解できないと思われたら癪だ。
「共同研究者の対馬です。この2症例につきましては……」
フロア後方から、先輩が援護射撃してくれた。普段は厳しくても、こういうとき教室員の結束は強い。議論の応酬が、私抜きで行われ、5分が過ぎてベルが鳴り、私の時間は終了となった。しっくりしないものが残った。
その後もその亀山先生は、帯広畜産大学の准教授の発表の後、真っ先に手を挙げていた。ずいぶんと聞く人だな。質問というより、いちゃもんに近いけれど。
「動物園獣医なんて、ただのゴロツキだな。」
いつのまにか横に来て耳打ちしたのは、先ほど援護射撃してくれた対馬先生だった。
だけど私は旭山動物園の亀山先生が妙に気になった。悪い人だろうか。言っていることは筋が通っているようにも思える。だがそのことを対馬先生に確認しても、もう最初から彼のことを受け付けていないようだった。
次は、西山先生、私の同期の発表であった。本当は私が発表したかった。歩けなかった犬に対して、漢方で治療をした柴犬の症例報告だ。
「それさあ、本当に疼痛否定できてんの?」
「ええっと、質問ありがとうございます。」
質問へのお礼も学会のお作法みたいなものだが、亀山先生はそんなのはどうでもよいと言わんばかりに座ったまま荒い息をしていた。
それから西山先生はしどろもどろになった。窮した人が言葉を発せずに口をパクパクする様子を、本当に見ることができた。
学会には懇親会がつきものだ。地方会は通常1日で終わり、研究室の仲間と打ち上げをして終わることが多いのだが、帯広での開催は珍しいので、今回は2日間に渡って行うこととなり、懇親会も開催されることになったのだ。
懇親が目的といっても、立食パーティーは大学ごとに群れができており、見知った者同士でビールを注ぎあっていた。そのへんは他の動物と変わらない。
私たちのいるテーブルで話題をかっさらったのは、発表で散々な思いをした西山先生であった。教授までもが「ヒト科ホモ・サピエンスが、不意の質問にうろたえる生態が観察できましたね」と、彼をいじっていた。
私はその間もずっとフロア内に目を光らせていた。あの、亀山先生を探していたのだ。オードブルを取ってくるふりをして、教室の群れから離れた際、私は独りワインを飲み比べている亀山先生に後ろから近づいた。
「うちの西山の発表の件で、もう少しご意見を聞かせて欲しいんですけれど。」
今度は私が唐突に質問したと思ったのに、亀山先生は私のほうを向く前から
「松井先生の研究も同じだけどさ、あんなんただのABモデルしかないでしょ。再現性が保証できない。」
私の名前を覚えていた。再現性……もう一度同じことが実験で確かめられること。うん、解る。ABモデル?解らない。亀山先生が口に放り込んだテリーヌを白ワインで流し込みながらこちらを向いた。
「だいたい犬の観察が足りんよ。そのくせすぐに犬の「心」とか言い出して漢方みたいな曖昧なもので効果を計る始末だ。」
私はその一言で火がついた。先ほどの消化不良はここで解消してやる。
「犬にだって心はあると思いますけ……」
言葉がいい終わらぬうちに彼は喋り出した。まったく人のペースを考えない。せっかちだ。
「解ってないな。心がないって話じゃないんよ。勝手に決めつけているのがいかんの。それと、『犬に心理的効果がないのは言うまでもないことです』っていうオタクんとこの横山の決まり文句な。あれ、仁原の受け売りだけど、大間違いだから。それこそ犬の心を無視しとるわ。」
ジンハラ、って。あ、うちの教授?こいつ何者?
「犬に、漢方の心理学的効果って……」
人間の場合、「漢方という体によさそうなものを飲んでいる」と思うことによって薬理作用がないにも関わらずに漢方が効いてしまう、ということがありうる。漢方には効果がない、という主張をする人がよく用いる言い分だ。だが犬には「漢方」という言葉もわからないから、効果があった場合それは「気の持ちよう」とは言えないので、本当に漢方が効いた、とうい証拠になる。
「コンテクストはあるから。これは文脈下の条件づけの問題なの。「心」の話を安易にしてはいかんのは人間も同じなの。犬の心を軽々しく論じるのは犬をバカにしている証拠なの。」
亀山先生はそこで息をつぎ、ワインもついだ。
「で、写真だけで判定すんのは危険だけれど、あえて言うわ。あの子、うつとかそういう以前に、痛みがあるよ。半夏厚朴湯で治療していても限界があるかもな。行き詰まったら、桂枝加朮附湯に変えな。それも誰が薬をやるかでも影響あるからな。オタクんところの中川くんが俺んところで修行しているから。下手くそだけど、他の連中よりはずっと使えるから、頼んでみればいいわ。」
「犬の心」とか「漢方」といったものにアレルギー反応を起こすだけの獣医ではなかった。むしろ、めちゃめちゃ詳しいヤツだった。
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第8章 中 へつづく
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