論理的思考の放棄 【小説】 『壁パイ(後編)』
論理的思考の放棄である。続いているのである。
言ってみれば私は巫女になったのだ。神の声を伝えるモーセになったのだ。五十を迎える前にして私は天命を知ってしまったようである。
かくして聖なる言葉は、論理的思考を放棄して神の媒体となった私に降り注ぐのである。(ちなみにこれらの言葉も実は論理的思考放棄モードによって書かれている)
ちなみにこれはほんとに腹が減る。ぶっつづけでやると「俺、もつのか?」と思うほどに疲れてしまう。努力はしていないのに疲れてしまう。
それでも夢中になれるので、やるのである。そう、天命である。
神の代理人たる私の手が勝手に「壁パイ(後編)」などと打ってしまったからには、それをやるのである。どうやら残りの1時間足らずで、この作品は完成してしまう、ということになる。マジか。
* * *
(承前)俺は不屈の精神で、壁に向かい、パイを弄んだのである。
このような日々が続いたのであるが、少々問題が起こった。近所の噂である。いや、人には見られないように気をつけていたのではあるが、猫のポン太が風の便りを流しやがったか、入江さんの家の塀にはおっぱいがあって、それを撫で回すふとどきものがいるらしいという囁き声を、俺はほんの偶然から、駅前の道路で横断歩道待ちをしているときに耳にしてしまったのである。俺はほんと角にさしかかったときに足を止めて、そのまままさに今横の信号が赤になったからこっちはもうすぐ青だー、などと思っていた矢先に道路の死角からその声が近づいてきたところであったから、これは俺の姿を見た噂好きな隣人があてつけに言ったのではなく、噂の主などいないと思って、それでも多少気を遣って小声で知人と話をしていたということになるのである。
俺は急いで横断歩道を渡り、駅の改札をロボットのように無表情で通過しながら考えていた。
見られておる。
いや、いかんいかんいかん。別の考えだってあるかもしれないのである。それよりなにより、俺が破廉恥なクソ野郎だということを認めてその罪悪感と羞恥心で死んでしまう、いやその前に世の中に後ろ指さされて仕事ができなくなってしまう。なんだったらあの淡々としている妻から三行半を淡々と理由も言われず当然のようにつきつけられてしまうといったことが、さあーっと頭の中をかけていって、思わず俺はネクタイをまっすぐに整えた。これは、向かいに座っているあまりにも清楚なおさげ姿の中学生に対して、「おじさんは清純な人ですよ」という頼まれてもいないアピールのためである。
困った。俺が俺として生きていくためには、俺が俺の思うままに振舞っているだけではいかんということである。節制しろ、自制しろ、なんとかうまく振る舞え。
ここで、いやいやいや待てよ、である。「僕は悪くない!」という三歳ぐらいのときに最後に言ったかもしれないセリフを俺は心の中で声を大にして言うのである。清楚な中学生に対しても「なんだこのやろう、文句あんのか」と凄んでみる。いや、それも心の中だけであって、もう目も合わせていないのだが、今度は隣に座っている、ご婦人が俺のほうをチラ見したので、今度はそっちに向かって、「あたしがなにかそちらさまにご迷惑をかけましたでしょうか」とアピールである。っていうか俺、いつのまにか電車に乗っていたんだな。
逡巡と思考の堂々巡りはもはや日常的である。それにしてもいつでもアクセス可能なおっぱいというものは魅力的である。俺は英知を絞り、俺が正当なことをしているのだという論理を組み立てるのに日々必死で、こういう通勤の間はそればかりを考えていた。
いささか杞憂がすぎたようだ。そもそも俺の姿が見られたことでとやかく言われたのではなさそうである。ポン太の視線さえをも回避しようとするのはなんとも自意識過剰であった。俺は深夜の二時、三時といった頃合いに壁パイクエストに挑んでいたのであるから、この電柱の明かりさえ影をなす絶妙ポイントにあるパイは目立たず、それを通りすぎるついでに撫でていくだけの俺のことを、「ああ、あんな公共の面前で乳繰りあっていやがるチクショウ」と言って双眼鏡を覗き込みながら地団駄を踏まれるという可能性さえないはずなのである。そもそも、隣の里中さんにさえこの壁パイのことは取沙汰されておらんのである。ふむやはり「壁からおっぱいなんてそんな奇跡、あるわけないでしょう」という常識が働くのか、そもそも女性はおっぱいに関心がないか、はたまた前衛アートに見えたか、壁から生えるおっぱいはその存在をスルーされてきたのである。
我が家の松が枯れ松ぼっくりや松葉が落ちる。里中さん家からはイチョウの木の葉などが舞う。外に涼しげな風が吹き始める季節に、外気に晒されているおっぱいというのは風情がある。
一つ家にパイもあったりカラスカア
などと一句詠んだりしている場合ではなくてなんだっけ。ああそうだ、スルーされているからいいようなものの、妻が言ってきたのだ。さすがにパイをそのまま晒しておくのはどうなのかと。
ふむそれは道理である。パイというものはハレの日とケの日を踏まえて露出されたり隠されたりするのが常なるものである。露出が主となってしまえばそれはヌーディストである。パーツだけではあるが、美しい女性(と俺は決めることにした)のパイが路上に晒されているのはいかがなものか、なのである。
ということで、今さらなのだがこれから寒空の下にパイが晒されることを考えると気の毒になった。鳥肌が立っているパイの皮膚などを触っていると、感慨ひとしおというばかりか、悲哀を感じてくる。そうは言っても妻の出したブラジャーをつけようという案は、物理的に不可能であって却下になった。背中がないのだから。俺の、門を裏返しにして内向きにすればいいという神のようなアイディアも、予算の都合から却下になった。まあ内向きになってしまうと俺がもみもみしているのがいつか妻の目に触れるだろうから、まだ外向きのほうがよいのだが。
結局そのままにしてしまった。というのは、布や紙などで試しに覆ってみたのだが、これが思いのほかいかんかった。人は隠されるとそれを覗いてみたくなる。またモノが大きいのである。だから紙や布は浮き上がってしまう。かえって不自然感が如実になってしまうのであった。壁パイを隠す計画は保留となる。
ところがこれまたひっくり返る。先日の噂、入江家の壁パイを揉みしだく変態野郎の一件は、俺のことなんかではなかった。近所のガキどもである。いや、ガキというのは最近だとポリティカリーコレクトではないのだろうから、中学生とでも呼んでおくが、どうやって気づいたか部活帰りの二、三人が、我が家の隣の行き止まりの道路にわざわざ自転車でやってきてはおっぱいを揉んでいくというのである。
けしからんではないか。
なにがどうけしからんのか、己の行状と照らし合わせ、ブーメランにならぬように慎重に考えた結果、よその家の、言ってみれば俺の、財産を侵す行為である。見るのくらいならまだよかろう。できれば見せたくもないが。だが、この俺様に「あのーすみません、お宅の塀にたいそう立派なおっぱいがふたつばかりございますが、あれにさわらせていただいてもよろしいでしょうか」「ならぬな。あれは当家に伝わる由緒正しいおっぱいにつき、淫らに・・・じゃなかった、みだりに余所者に触れさすようなものではあらんわ」「そこを何卒。なにぶん中学生でございます。血気盛んな年頃でございます。ほんのわずかばかりではございますが、謝礼もお支払いいたしますゆえ」「あいわかった。そこまで言うなら、指先でほんの少し、端のほうを押してもよいぞ。そこまでじゃぞ」「ははあー」くらいのやりとりもなく勝手に自転車でさーっとやってきてさーっと去っていく。そんなイージーなタッチ・アンド・ゴーは許さんのである。
ずっと壁パイを風に晒してきた俺ではあったが、すぐに動いた。木箱でパイを囲うように塀に取り付け、鍵がないと開かないようにしたのである。万事解決だ。最初からこうすれば、変な噂も立つこともなかったのだ。
ある夜、俺は思い立った。なにぶん大きなパイである。青森と言えばりんごのごとくに思い浮かぶのは、デカパイにはパイズリである。思い立ったと言ったがずっと考えていた。俺はそれを決行することにした。
鍵は持った。裏口から二時に出るのはもはや日課である。おかげで昼間は眠くなることもあるが、帰れば壁パイが待っていると思えばクソ仕事も電車通勤もこなせるのである。
今さらながら、木箱は邪魔である。鍵を開けても、観音開きになった木箱の正面からしかそこには侵入できない。俺は塀の上に手をかけて、思い切り足を踏ん張って壁を這いずらせ、なんともまあすごい大の字を潰したような格好になってから己のイチモツを出そうと踏ん張ったのだが、どうやら先にパジャマのズボンを脱いで置かぬとどうにもそれは無理だと気づいた。やり直し、ズボンをずり下げたところで…
「どうしました」
心臓に悪いのである。声の次は懐中電灯の漏れ来る光である。それから自転車の音。もうわかった。お巡りさんだ。俺は腰を抜かして地面に尻もちをついてしまったところで、光を当てられた。
「いや、ちょっと当家の財産が気になりまして」とわけのわからんことを言ってから裏口へと急いで戻り、鍵をかけた。汗だくであった。ポン太が外で、ニャアニャア鳴いていた。
その翌日は日曜日であった。今で爪などを切っていると、来客があると妻が言った。はて、客が訪れるような家ではない。心当たりのないまま、スエット姿で玄関に出てみると、女性が二人いる。一人は髪の短い、鋭い目つきの女で、最初から睨むように俺を見ていて、こういう者です、と片手で名刺を渡してきた。
「女性人権回収センター?」
「とにかくあがらせていただきます」と勝手に言うと、もう一人いたベージュのワンピースに紺のカーディガンを重ねた女性に「さあ、入りますよ」と声をかけた。その女性は長い髪をしていて、目は大きめの黒いサングラスに隠されており、顔がよくわからなかった。
胸が大きく、なんだがデジャヴのようなものを感じた。
今に通し、座布団に座らせる。お茶の用意もない間に、目のきついほうの女、橘葵が話を始めた。
「あなた、入江大さんですね」
「いかにも。あなたがたは?そちらの女性は」
「それはけっこうです。私については先ほどの名刺に書いてあるとおりです。あなたの家の塀に、その、胸が、ありましたね」
「はあ。なんとも唐突ですな」
「確認済みです。先ほど裏を訪れました。塀に木で隠してある跡があって、あの中にこちらの女性の胸があったということはたしかです」
「たしかなんですか。どうやってわかったんです」
「もう胸は回収しましたから」
回収されたのか。どうやってだ?理屈ではよくわからんが、よく考えたら彼女の胸があの塀に飛んできたことも理屈がわからんのだからそれでいいのだろう。とにかく回収されてしまったようだ。
「はあ。それはよかったですなあ。私たちもどうしたものかと思っていましたから」残念である。
「よかった?話はもっと深刻に考えてもらわなくては困りますよ」
橘葵の口調がいっそうきつくなる。
「彼女の胸は、、、なんというか、ああ、こんなことを口にするのもおぞましいのですが」彼女は一度咳払いをした。「触られました。ご存知でしょう。というかあなたですね、その胸を触ったのは。さらには落書きをされたり、暴力を振るわれたり、さんざんないたずらをしたんじゃないですか?」
「はあ?」俺は声をあげた。「僕がいたずら?この方の胸を?」俺の知らない間にいろいろとやっていたやつがいるらしい。俺は少し頭に来たが、今はそういうことよりも対応である。驚きながら、怒りながら、うつむいている女性のほうを見る。何歳くらいだろう?というか、顔を見たい。美人そうだ。きっとそうだ。見たい。
「あの、この方はどちらなんですか?まずそれをはっきりさせてもらいたい。たしかに家の塀にはおっぱいがありましたけれども。いや、そりゃわかりますよ。見ましたからね。それははっきりさせておきましょう。だけどこっちだって驚きましたよ?どうしたらいいものかとね。だから守ったんじゃありませんか。木箱で覆ったでしょう?あれは近所の中学生とかおやじとかがいろいろ触っていたようだったから、僕が注意して、触れないようにしたんですけれど?それがいけなかったっていうんですか?心外だなあ。ひとの家にかってにおっぱいを間借りさせておいて、こんどはこっちを悪者にするんですか。とんだ恩を仇で返すというやつだ」
これには橘も一瞬ひるんだ。だが攻撃の口は止めない。女は顔を上げない。胸はでかい。
「毎晩触られていたと彼女はいいます。それはあなたがやったのではないですか?」
ここで認めてしまうととんでもないことになる。だからうまく言う。
「あのですねえ。僕がどうして毎晩触ったということになるんですか?その証拠でもあるんですか?どうして僕なんですか?」
橘は黙る。俺は彼女の顔が見たい。
「すみません。やはりこの方の素性を明らかにしていただかないと。タチの悪い詐欺とかなんかかもしれないじゃないですか」
「詐欺ですって?あなた、それはセカンドレイプというものですよ」
「いやいやいや。納得いきませんね。そもそもあそこにあったパイがあなたのものであったという証拠は一切ありません。そもそもパイがあちこち行き来する理由もわかりませんが、それは置いておいて、あなたが本当にあそこからあなたのパイを回収したのかどうかもわからないじゃないですか。ちょっと見せてもらえませんかね」
「ああ。今セクハラ発言をしましたね」
「なにを言っているんですか。あなたの胸はずっと晒されていたんですよ。本当にあなたの胸だって言い張るんだっていうなら、今さらいいじゃないですか。見せてくださいよ。ひと目見れば判定できますから。それともなんですか?やっぱり新手のゆすりですか?さっきからいろいろ言っている言いがかりには、すべて証拠がないんですか」
橘は露骨に悔しがった顔をした。鼻息まで荒くなっている。女はやっぱりうつむいて、顔を真っ赤にしている。
「わかりました。今日は退散いたしましょう。ただひとつ言っておきたいことがあります。詳細は話しかねますが、このような特異な現象が起きたということは、これはある種の呪いであったということが考えられております。あなたも恨みを買わないようにすることですね。さ、行きましょう」
「あ、ちょっと。サングラスぐらいはずしてくださいよ。ちょっと!」
顔を見せず、おっぱいは帰っていった。
はあ、まあいいか。おっぱいが壁に生えてくるなどという出来事はそうそうあることではない。俺はそれを充分に堪能できたのだから。もしかしたらお巡りさんが報告したのかな。逸失物の中におっぱいというのがあって、それでずっと探していたのかもしれない。まったく。
それにしてもあの目のきつい女、なんか言っていたな。呪いだって?そんなことあるわけないじゃないか。
次の日俺が目覚めてみると、俺のイチモツが失くなっていた。それはどこかで外気にさらされており、冷たい風がひりひりとかすっていくのが感じられた。
壁チンだ。俺はそれが今後どのような運命をたどるのかを思い、薄ら寒さを覚えた。
* * *
うぅ・・こんなものができあがるとは・・・。