
今日のごはん
自分は死なないことに決めている。死ななくなる時代が来るという話も聞いている。それがまだ来ないなら、死体を冷凍保存をしてくれる会社があるので申し込むつもりである。そうは言っても一般的には人生の折り返し点の年齢であるので、一般の人のようにこれまでの人生とこれからの人生のことを考えてみたりもする。
今自分は、人生の中でもっともスリリングな時期を過ごしているようで(まあ、毎年そんなことを言っているような気もしないではないのだが)。
木皿泉の『さざなみのよる』については先日感想文を書いたが、この『昨夜のカレー、明日のパン』についても、主人公は同じ役者だな、と思っている。
自分は落語と同じスターシステムで物語を考えるクセがあるので、違う作品の違う人物はあくまで違う人物なんだけれども、それぞれの作者ごとに存在する劇団があって、そこの役者数名が、作家の作品ごとに役を変えて出ているんじゃないかな、と思ってしまうのだ
『昨夜のカレー、明日のパン』はドラマ化されているらしい。主人公のテツコ役は仲里依紗さんだ。自分がイメージするテツコとはちょっと違うが、ドラマを観た訳じゃないので、もしかすると小説の雰囲気そのままに演じてくれているかもしれない。
いや、違っていてもいいんだろう。仲里依紗さんは大好きな役者さんだ。ドラマはドラマ。割り切ったら、イメージとズレていても、まあそれはそれ、と思えるかもしれない。やっとこういう発想を持てるようになった。人生の半分を費やした訳か(いや、永遠の人生における一瞬だけど)。
自分は「あきらめる」「とりあえず先に行く」が苦手だった。それをしないことが人として優れていることだと信じて生きてきた。あきらめるのが老いであると思い、否定的に捉えてきた。
今は逆だ。「あきらめ」「ま、いっか」こそが成長の証だ。不完全であることや曖昧さを受け入れられないのは未熟なのだ。それに、人生はどうしてもあきらめざるを得ないものに溢れてくる。たとえばそれは死だ。
それでも誰かは生きている。自分はとりあえずまだ生きている。若い人から死んでいくこともある。そんな命へのあきらめとともに、他にも多くのあきらめがあって、そこから先に進むものもある。
逆にとどまるものもある。思い出だ。追憶は過去にしがみつくことを必ずしも意味しない。それとともに先に進む。思い出は上書きで消えるようなものではなく、累積される。
そうして日々を生きる。多くの人生の傍を過ぎ、あるいは深く関わり、自分も生きる。さらにはこうした小説という架空の人生を味わい、その書き手の人生にも触れる。いやいやそれどころか、この本を送り出そうとした編集者や、出版後も推す出版社の姿までにも想いを馳せるようになってしまった。
人生とはそれぐらい、他の人生と袖振りあわずにはすごせぬもののようだ。
河出書房さん。この本を推してくれてありがとう。
それはさておき、私は死にませんけれどね。