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言葉って、私のテリトリーだ。
私は魔法使いだ。魔法使いの中でも、言葉使いというやつだ。
そうだろう。掛詞(シャレ)、韻文、定型、ダブルトリプルミーニングといった言葉遊びは得意中の得意だ。
そういう小技程度のことならば、息を吸うようにできてしまう。
たとえば自分は即興劇をやっていたが、舞台でセリフをすべて575で即興で喋る、なんてことをやっていた。
このゲームは、役者が、言葉に縛りを受けて四苦八苦しながら喋るところに面白みがあるのだが、私の場合、それは何ら苦ではない。スラスラと575で、普通にセリフを言うことができる。あまりにも自然に言うので、「あれ?本当に575?」と疑われるほどだが、完璧にこなしている。
他にも、セリフの頭の音を「あいうえお」順にしていく、なんていうゲームとか、セリフが3文字なら3文字と、割り当てられた音韻数しか言えない、なんて縛りのゲームもある。本領発揮である。制限があればあるほど、私の能力は発揮される。
日本に生まれて良かったと思うのは、音の数にしっかりとした制限のある詩歌の形式があることだ。川柳・俳句・短歌・都々逸といったものは、どれもすべてやる。たいていどれかに絞るものだろうが、私はすべてやる。もっとややこしい連句も大好きだ。
ああいうものは、一般人には最初はハードルが高いらしい。だが私は苦労しない。
「こういう形式のものですよ」
「ああ、そうですか。じゃあ、こんなんでいかがですか」
ぐらいな感じで作ってしまう。クオリティは、ベテランと大差ないだろう。
無論、極めて優れた作品というの(コンテスト優勝レベルの)はいつもできるわけではないかもしれない。それでも、及第点を得るくらいの作品なら、朝飯前ならぬ、子供寝かしつけ後くらいにはさっさと作ってしまう。
「どうして作れるんですか?」
この質問には答えようがないかもしれない。
できてしまうのである。
強いて言えば、遊び心である。サービス精神である。
言葉を愛している。だからあとはそれを愛でるのみである。
雑に量産しても仕方ないのかもしれない。
だから磨き上げることも必要なのだろう。
だが私は、鳥がさえずるように、言葉を巧みに操ることで生きている実感が得られる。言葉ほどに私を魅了し、私が戯れるものはない。これに勝るのはおっぱいくらいか。たぶんどちらかを選べと言われれば(泣く泣く)言葉を選ぶだろう。
この私が、この世界にサービスできるもの、この世界に彩りと足跡を残せるもの、それが言葉である。
俺、結構noteに自信作あるよ。