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【エッセイ】 書くことというレーゾンデートル]
*筆者の妄想です。書かない人ももちろん、ご自身の悩みをお持ちであることは重々承知しています。被害妄想気味の筆者のひとりごとと割り切って読んでいただけたら幸いです。🙇
書くことは、書くひとに課された人生の仕事だと思う。
書くひとは書かずには生きていられないし、書くことによってのみ、自らにとって真の人生を生きることができる。
もちろん世の中には、書かない人、書くことにまったく興味のない人もいる。書くひとは、そういう人たちをたまに羨ましく思うことがある。そういう人たちは、いかにも軽々と、楽しげに、何の悩みも憂いもない人生を生きているように見えるからだ。
もちろん、悩みごとがまったくないという人はいないだろうから、そういう人たちもそれぞれの悩みを密かに抱えてはいるのだろう。
けれどそれは、きっと、書くひとが抱え続ける悩みとは異質のものだ。
なぜ生きているのか、なぜここにいるのか、これからどうして生きていかなければならないのかといった類いのことは、書かない人たちにとってはきっと取るに足りない、もしくは観念的すぎてその人たちの関心領域の外にある、遠い次元の事柄なのではないか。
そんな風に思われるのだ。
だが、そういった類いのことをしょっちゅう考えずにはいられない書くひとにとっては、この類いのことは、生まれたときにすでに身に着けていた装身具か何かのように、常に身近な存在である。そして成長するにつれ、それはもはや装身具とも言えなくなり、身の内に深く食い込んでくる。そして身の内と魂のエーテル体の同じだけ深いところに平行して確実に根を張っていく。それは、自分では止められないいわゆる必然において起こり、進行し、そしてその内その人がこの世に存在していることの意義、存在理由と呼ばれるものにさえなる。
書くひとは、このraison d'etreに突き動かされて、日々ものを書き続ける。書くことがもはや、彼、彼女の人生そのものとなる。そしてその過程の中で、この種の悩みや憂いを、この種のことは一向気にならないらしい書かない人たちに代わって引き受けさせられているような、被害妄想のようなものさえ抱くようになる。
なぜ君たちは考えないのか。
なぜ君たちは悩まないのか。
理由があって悩まないのではないだろう。ダサイと思っているからか。色々悩んだって仕方がないと開き直っているからか。それとも、そもそも悩みという概念を持たないとでもいうのか……。
少なくとも、書くひとの目には書かない人たちはそんな風に映っているのだ。
こうして書かない人たちは、書くひとにとって複雑怪奇な存在となる。
まるで理解不能な、遠い憧れのように。
仕方なく、書くひとは今日も筆を執る。
あるいは、パソコンの前に座りキーボードを打つ。
世の中のあらゆる悩みや憂いを一手に引き受けているような気持ちになりながら。
――思うに、作家が自殺するのは、このように世の中の書かない人たちから深く考えることや憂うことを一手に引き受けさせられているという思いと目の前に顕現する状態との摩擦に耐えられなくなるからではないだろうか。
――あるいは悩み過ぎ、考え過ぎのせいで?
などということを、今日もまた考え過ぎている。
私がこの文章を最初に書いたのは、トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』を読んだ後だったと記憶している(その後幾度か改稿)。
読んだことのある方なら何となくこの感じがわかって下さるのではないかと思うが、最後に小説から引用を載せておこうと思う。
〝書かないひと〟とはすなわちハンス・ハンゼンやインゲボルグのことであり、〝書くひと〟は創造苦を身の内に帯びて生きるトニオ・クレエゲルである。
僕は君たちをわすれていたのか、と彼は問うた。いや決して忘れたことはない。ハンス、君のことも、インゲ、君のことも。僕が働いたのは君たちのためだったのだ。だから喝采の声を聞く度に、僕はいつも君たちもそれに加わっているかと思っては、そっとあたりを見廻したものだ。……君はもう『ドン・カルロス』を読んだかね、ハンス・ハンゼン、いつか君の家の庭戸のそばで僕に約束した通りに。読むのはやめたまえ。僕はもうそんなことを君には求めないよ。淋しいからといって、泣くような王様が、君に何のかかわりがあろう。君は詩と憂愁を凝視して、その明るい眼を曇らせたり、夢のように霞ませたりしてはいけないのだ。……君のようになれたら! もう一度やりなおして、君と同じように、公明に快活に素朴に正則に秩序正しく、神とも世とも和らぎながら人となって、無邪気な幸福な人たちから愛せられて、インゲボルグよ、君を妻として、ハンス・ハンゼンよ、君のような息子を持つことができたら――認識と創造苦という呪いを脱して、甘美な凡庸のうちに、生き愛し讃めることができたらなあ。……もう一度やりなおす? しかしそれはなんにもなるまい。やりなおしたところで、またこうなってしまうだろう――いっさいは、今まで起こって来た通りにまたなってしまうだろう。なぜといって、ある人々は必然的に道に迷うのだ。彼等にとっては、もともと本道というものがないのだから。