「でんでらりゅうば」 第3話
――ぐるぐると幾つも小さなカーブが続く山道を、もう一時間以上も上っていた。国道だろうか県道だろうか、とにかく狭い道路で、標高が高くなるにつれて明らかに整備されていない箇所が目立ってきた。時折風倒木が一時的に道の端にどけられているといったような箇所があったし、アスファルトの舗装もない、土が剥き出しになっている獣道のような区間も通り過ぎた。基本的にずっと急な上り坂が続いていたが、阿畑が慣れた様子で運転する灰色の軽自動車は意外に馬力があって、ぐいぐいと前へ進んでいった。
右側に長く続いていた丘のような高台を回り込むようにしてカーブを曲がると、ようやく集落の入り口に辿り着いた。
「あんまり山の奥で驚いたでしょう?」
阿畑が笑いながら言った。確かに、県境の山の上のほうにあるとは聞いていたし、リーフレットに書かれた住所を地図の上で確認し、それがどれだけ人里離れた秘境のような土地にある集落かということは承知していたつもりの安莉だった。けれど紙の地図上で見るのと、実際に自分がその場所に降り立つのとでは印象はまるで違う。阿畑の車を降りて集落の入り口に立ったとき、安莉は確かに〝自分は凄いところに来てしまった〟という驚きを隠せなかった。
目の前には、山の斜面と斜面に挟まれるようにして、村があった。家々の数は思っていたよりも多い。阿畑と安莉の立っている村の入り口から細い通りが真っ直ぐ前方へ向けて走り、いつから建っているのかわからないぐらい古い、木造の三角屋根の家々がその両側に並んでいる。一瞬、タイムスリップでもしたかのような気分になった。
「随分歴史のある村なんですね……」
安莉は言葉を選んで言った。
「そうですね。大昔からずっと、代々ここに住んでいる人たちがほとんどです。勿論、私もこの村の出でしてね」
阿畑は村の古さを誇りにするような顔をして言った。
「こんなところですが、田舎もまたいいですよ。しばらく住んでみれば、わかるかもしれないです」
「こんなところだなんて……。静かなところで、ひと目で気に入りました。実は私、こういう静かな環境で暮らしてみたいとずっと思ってたんです」
この限界集落のような場所を自分の故郷であると嬉しそうに言う阿畑に半分気を遣って安莉は言った。人里離れた、文明から隔絶されたようなこの土地で、何もなければきっとすぐに退屈して街へ逃げ帰りたくなったことだろう。けれど安莉には、このような土地にあえて身を置きたい理由があった。そしてそれは、先ほど阿畑に言ったリップサービスの残りの半分でもあった。
村のなかには車道がないのでここからは歩きで、と言う阿畑のあとについて行くと、村の入り口を入ってすぐ左側にある、五メートルほどの高台に上る坂を上り始めた。坂が急なので、大きな荷物はあとで若い者に運ばせる、と阿畑は言った。
肩にかけた布バッグだけを携えて阿畑の後ろから坂道を歩きながら、安莉はさっきから妙な違和感を覚えていた。
そうなのだ。この村には、なぜか人気がない。先ほどパッと見て通りの左右に少なくとも二十軒、合計四十~五十軒ほど家が建っているというのに、通りには誰もおらず、子どもの声すら聞こえない。もっとも、限界集落なら子どもがひとりもいないということもあるかもしれないが、それにしても人の気配がなさ過ぎる。住人は皆老人で、屋内で音も立てずテレビでも観てひっそりと暮らしているということだろうか。でもだとしたら私が雇われた仕事は? 食品加工物の生産と販売をやっているのではなかったっけ?
何とはない不安を感じながら安莉は坂を上っていった。アパートは高台の上にあるらしく、坂を上り切るころには集落全体が見渡せるようになった。山と山のあいだに挟まれた小さな谷に開けた家々の様子は、その場所から見るとまるで可愛らしい箱庭のようだった。正面に見える、建物の密集したところの少し向こう、山陰に隠れたような一画に、こんもりと木の繁る林があった。上に向かって尖った槍のような形をした木々は、杉だろう。青々と生い茂った遠くの杉林は、周囲の山の陰に覆われてまるで黒い森のように見えた。
「さて、着きました」
阿畑が振り向いて言った。
その建物は、全面白く塗られていた。屋根はなく、現代的な細長い箱型の形をしていて、パッと見た感じ、シンプルな造りのコーポといった雰囲気だった。
「都会から来られる人のために、村中でかかって準備したんですけどね……」
決まり悪そうに言いながら、阿畑はガチャガチャと音を立てて鍵を開けた。電話口で初めて話をしたときからずっと気になっていた、いつも微妙に申し訳なさそうな、言い訳がましいニュアンスの交じるその口調にも、今では少しずつ慣れてきた。
玄関を開けると、そこは一間ほどの幅の小上がりになっていて、右側に靴箱が設置されていた。正面には白い折れ戸タイプのクローゼットがあり、羽板の扉は小洒落た雰囲気を醸し出している。
靴を脱いで上がると、すぐ右側に階段があって、二階へ上がるようになっていた。
「斜面に建物を建てているもんでですね、変な造りになっちゃって……」
申し訳なさそうに、また阿畑は言い、先に階段を上がっていった。
階段を上りきった右手にはもうひとつ扉があり、それを開けると部屋があった。床は明るいアイボリーカラーのフローリングで、下に緩衝材でも入れているのか、柔らかく足によく馴染んだ。壁は外側と同じように白く、すっきりとした統一感があった。
「気に入っていただけるといいんですけど……。今どきの若い人の感覚に合うようにと思って、私ら全員でデザインの本とかも取り寄せて、一応研究して造ったつもりです」
阿畑が横目で安莉の様子をうかがいながら言った。
「えーっ、そんなことまでして下さったんですか? ……すごいですね……。いやー、ホントに素敵なお部屋です!」
安莉は感激して言った。実際このような僻地でこんなクオリティーの住居を期待していたわけではなかったから、尚更だった。安莉は歩を踏み出し、アパートのなかを見回り始めた。入り口から入ったところはすぐ居間になっていて、正面と右側の面は全面大きなガラス貼りのサッシになっている。サッシの上下左右には、暖かみのある木製の太い縁がついていた。右側の面は東を向いていて、その前には無垢材のどっしりと重量感のあるデスクと椅子がしつらえられていた。天井には明かり取りの小さな天窓がついていて、部屋全体を自然光が柔らかく照らしている。
そして、この居間からの眺めはどうだろう。さっき坂を上ってくるときに見た箱庭のような村の全貌が、ここからは更に端々まで見渡せた。そして村の向こうに見えた黒い林も、集落を挟み込むように左右から迫っている山々も、遙か彼方に霞んで見える高い山々の連なりも、そのすべてが一望のもとに見渡せるのだった。
「ここは眺めも最高ですね」
嬉々として安莉は言った。その様子にいかにも満足そうに微笑むと、左手のほうにある浴室と寝室を案内しながら阿畑は言った。
「色々落ち着いたら、近いうちに一度歓迎会を開こうと考えてます。ここでの生活を、楽しんでいただけると嬉しいです」
「ありがとうございます」
安莉は笑顔で返事を返した。