「チュニジアより愛をこめて」 第17話 最終回
――私は、驚いていた――。
いつまでも開けられないでいたお茶の袋を思い切って開け、それを飲んだことは、やはり大きな何かをもたらしたに違いない。けれど、不思議な、何か他のことも起こったような気がした。
こみ上げてきた涙は私の瞳を浸して、目の前の世界はかすみ歪んだ。それは透明な膜のように、いっとき世界と私とを隔てていた。
その間、私はどこにいたのだろう。そこはチュニジアでもカナダでも日本でもなかった。私は純粋な、絶対的な〝孤独〟のなかにいた。
涙の粒がひとつ、ふたつこぼれ落ちるにつれ、その透明な膜は薄くなり、目の前の景色がぼんやりと戻ってきた。私は涙をハンカチで拭った。そして、そうするうちに、彼に対する想いというものが、急に性質を変え始めたことに気がついた。
私は何度も瞬きをした。突然、目の前の世界が鮮やかに広がっていくような気がした。
――あんなに遠くにいながら、彼を想って高鳴る胸の鼓動に戸惑い、彼の為に何度も激しい涙を流したというのに、今はそれがまるで夢のなかの出来事であったかのように感じられる。私は改めて驚いていた。この国の、音、匂い、訪ねた土地の風景や人々や彼等の話す声、その他の雑多なものごと、強い陽光のもたらす鮮やかな色彩の全てが、心のなかを埋めつくし、あっという間に彼という存在を場外へ押しやってしまったことに。
チュニジアは、美しい国だった。
今目にするもの、触れるもの、嗅げるもの、聞こえるものは、彼を介さず直接私の内側に届いた。その奥には〝喜び〟と呼ばれる人生を生きるに値するものに変えるマジックが待ち構えていて、それに触れた途端、全ては強いエネルギーとなって、地面の上のこの両足に流れ込んでいくような気がするのだった。
私はここで、再び〝愛〟を見出した。
この、限りなく美しい海と神秘的なサハラ砂漠を懐に抱く、小さな宝石のような国を、私は全く違う見方で愛するようになった。これまでは〝彼の〟国であったこの国が、今は〝私の〟国になっていた。
私は思わず立ち上がった。地中海の海の青が、眩しいくらい目に沁みる。私は目を細めながら、ゆっくりと周囲に頭を廻らした。シディ・シャバーヌの入口から、向こうにそそり立つ椰子の高木、青いパラソルが広がる下段のテラス、遥か下方に見える、ヨットの犇き合うマリーナと白い砂浜から、住宅街へ続く坂道……。それらがまるで屏風に描かれた絵のように、金色に輝く夕日と交じりながら展開した。
私はこの景色を生涯忘れることはないだろう。
その瞬間、シディ・ブ・サイドは私だけの街だった。
――先刻から傾いていた太陽が、低い位置まで下りてきて、少しずつ辺りをオレンジ色の光で包み始めた。その黄昏時の淡い光は、地中海を吹き渡るそよ風の一群を連れてカフェのテーブルに忍び寄り、一日を終える魔法の時間の厳粛な儀式のように、街と海を夕闇に染めていった。座席の背もたれに身を預けながら、私はその一部始終を眺めていた。
――その時、携帯の着信音が鳴った。
開いてみると、そこには、思いがけない、最も送られてくるはずのない人からのメッセージがあった。
フランスで起きた幾つもの出来事が瞬時に甦った。
「会いたい」
ひと言だけ、メッセージは呟いていた。
私は目を伏せ、ふっと笑うと、携帯をバッグにしまった。そして、ゆっくりと立ち上がって、カフェを後にした。
終