池内恵教授の「降伏しろと扇動するポピュリスト政治家」って外国に向けて説明できないな(中略)何でそんなものが生まれてくるのか説明し難い・・・というツイートへリプライした文章のまとめ(一部訂正済み)
【はじめに】
橋下徹氏と彼の賛同者の言動はその真意がどうであれ、結果としてプーチン・ロシアの侵略、及びそのプロパガンダに正当性を与えるものです。
軍事的劣勢に立たされているウクライナにとって国際社会からの支援は命綱です。その国際社会を動かすのは国際世論であり、各国政府に対して民意を示す大衆がそれを形成しています。日本の大衆の間で橋下氏の意見が受容されてしまえば、日本が国際世論の足を引っ張ってウクライナを窮地に追い込むことになり、結局はロシアの侵略に加担することになってしまいます。「悪意は無かった」で済む問題ではありません。以上の理由から、橋下氏らの発言を野放しにしておくべきではないと考え、本テキストを提出しました。
(はじめに 2022.3.7追記)
池内先生にとっては分り切った内容かもしれませんが余計なお世話で書く長文をお許しいただければと思います。当該のプライムニュースは観ていませんが今回の件についての橋下氏らの発言を観ているので何が問題になっているのかは分かります。(注:池内教授のツイート)
その上で乱暴に言ってしまうなら、「橋下氏らが近代以降の人類の資産である民主主義や自由に価値を見出していないから」だとしか言いようがないと思っています。
橋下さんたちは自分が合理的だと標榜しますが、自由について、それを差し出せば何かがもらえるというトレードオフなものと考えています。それが彼らの「合理性」で、実は日本人の中にはかなりの数の人がこういう発想をしていることが今回の件についての人々の発言などを追っているとわかります。
しかし本当は、自由はトレードをする際に当事者が主体として機能するためには完全に持っていなければならないものです。片方に自己決定権が存在しなければトレードなど成立せず、一方的に言いなりにされているだけで、ロシアは武力でずっとこれをやってきました。
かつて夏目漱石は日本の近代化が良いとこどりの「上滑りの近代化」だと指摘しましたが、特に江戸時代には「お上」と結びつきの強い百姓側の精神性があり、これが丸ごと明治以降の日本でも維持されています。
確かにお上に対しては「自由」を自主的に差し出せば庇護してはもらえます。百姓一揆の記録などを観れば、お上と一体化しようとする「下々の者たち」の精神性が良くわかります。しかし身分制が放棄されたまともな近代においては、個人と個人の関係において片方が片方に自由を差し出すなどありえません。
橋下氏のように本人がロシアの手先でもないのにウクライナに「さっさと降伏しろ」と言い放つ人たちは、こういう個人や平等を成り立たせている、前提条件としてのメカニズムを最初から全く受け入れておらず、身分制的発想のもとで自我を肥大させてきた人たちです。
過激派ぶってはいても橋下氏などは、「ちっぽけな」ウクライナが力を持った「お上」であるロシアに逆らえていることに脅威を感じているはずです。また世界中の「下々の」小国が「結託」してウクライナの「反抗」を支持して「お上」ロシアが追い込まれている状況など、観るに堪えないでしょう。
もしロシアという「お上=単純なパワー」の絶対性が否定されてしまえば、「その強力さを分かっているから自分は上手く立ち回れるし、将来の予測も立てられる、つまり自分には主体性がある」と思っている橋下氏にとっては自己が安定しているという感覚を得る手段がなくなってしまう事を意味します。
もちろん以上のことは橋下氏本人は全く自覚できておらず、だからこそ彼は盲目的に必死で攻撃性を全開にして「単純なパワー」の絶対性をゆるがないものとして「ウクライナは降伏すべき」と吹聴しているのだと思います。
これは彼が結局はマジョリティや強い者に加担する形でしか自己を成立させていないという事の証拠であり、主人に従うことで安心を得るように自己を飼いならした奴隷のメンタルです。だからこそ彼が勝手に「自分と同じ奴隷だ」と見做しているウクライナに対して、分不相応だ、と辛辣に当たることになります。
結局、橋下氏によるウクライナへの批判は日本社会に良く見られる足の引っ張り合いの一種であり、それを無自覚に国際社会の場へと持ち込んでしまった。もちろん国際社会の基準は江戸時代を引きずっている身分制メンタルなどとは無関係ですから今回ばかりは彼は完全に浮いてしまうことになります。
橋本氏の一見支離滅裂な言動はこうした前提の元に観察すれば全て一貫していると言えると思います。ゴミみたいな一貫性ですが。 以上いきなりの長文失礼しました。
簡単に言うと橋下氏は確かに大衆扇動をしているが、彼と同じ「自発的に奴隷であろうとする人たち」に向かって呼びかけている、ということです。 日本の大衆の中には「自由・平等・独立等の民主主義の前提である理念に価値を置く個人」ではなく、「自発的に奴隷であろうとする人たち」が歴史的・文化的背景から多数存在し、橋下氏はむしろ自分と同じ精神性を持つ彼らに呼び掛けている、ということです。彼らは親ロシアでは全くありませんが、身分制的精神性を維持していて「お上」との親和性が高いため、結局は大国ロシアを利する言動を肯定してしまう。
かつて江戸期を通じて農民は幕府側に対して決して武力で反抗しなかったが、一方、明治政府に対しては武装して激しく暴力的な反乱を起こしたという歴史的事実も見逃せません。(実は竹槍が武器として使用されるのは維新後の新政府との争いにおいて。)
近代的理念を身に着けた人には当たり前すぎて意識し辛いのですが、個人の独立性やそれに基づく民主主義を擁する近代的思想の方が、ある意味、生物としての人類にとっては不自然だとすら言えます。更に日本は明治まで近代的文脈を持っておらず、明治以降に後付けで導入された物でしかありません。
実は、「民衆にこそ力がある」と常に考えることができるのは、「民衆の一人一人は個人であって、その個人を成立させる特質として自由・平等・独立等の、民主主義の前提である理念は守られなければならない」という約束を自分たちに課している人だけです。こういう人たちだけが銃を突きつけられても理不尽に抗って戦うことができます。しかしそうで無い人たちは平時には大衆側について民衆の力を持ち上げていても、銃や核兵器のような武器という要素が登場した途端、「武力>大衆」という価値観になる。
この価値観に至るだろうと言うことは、時として露骨に強調されて物議をかもす「大衆>少数派」という世界観に基づく橋下氏らのポピュリズムが、実は単に力の強さだけを絶対的基準にしていて、善悪や物事の是非を問おうとしない態度であると考えれば、ごく普通に推論することが可能です。
つまり、単純な力だけを基準に序列をつけた場合、実は平時の日本では武力と言う要素が隠されているために「大衆>少数派」という価値観に見えているだけで、実際に彼らが掲げているのは「(武力>)大衆>少数派」という単純な力の強弱に従ったヒエラルキー構造でしかないということです。
善悪を問わず「自分より弱い」という理由で少数派を踏みにじることが前提のポピュリズムであれば、大衆よりもよりパワフルな武力は、当然ヒエラルキーのより上位に位置させられます。
つまり彼らが外見上ポピュリストでありえるのは、逆説的ですが、日本・政府の「個人の武力・暴力だけは禁じて、その他には一切口を出さない」という近代国家としての原則が、武力行使の存在しない平時の現代日本国内社会を出現させているからであって、橋下氏が肯定的に民衆の力を捉えているという理由からではない、ということです。彼が重視しているのは単純に自分が利用可能なパワーの強弱だけでしょう。
政府や国家とは別の市民社会や共同体(ヴェーバーなどが言うゲマインシャフト)と言った別枠の権威が存在すれば、その権威によって口を出すことで政府や国家が提唱するものとは別の価値観・道理が彼らの暴力的ポピュリズムを抑止できますが、これは近世においては江戸幕府によって、更に近代においては明治以降の近代化によって解体を進められてしまい、独自に機能することを不可能にさせられてしまっているという背景があります。
橋下氏の目には日本において「近代的理念を身に着けた人」は少数派だと映っている。(彼への賛同者の多さを見るとそれは事実なのかもしれませんが)彼の分析はグローバル世界からの影響を無視した場合には、ある意味で正しい。
もちろん「外から確認できない他者の内面」について、人間は自分の姿(内面)を鏡に映すようにして理解しようとするので、橋下氏は人々のメンタルのスタンダードが自分と同じだと勝手に思っているだけで、自覚的な戦略の下にこうした態度をとっているわけではない可能性も高いのですが、その場合も自動的か意識的かと言う違いだけで結果的に彼がやること自体は変わりません。
いずれにせよ欧米とは異なる歴史・文化的背景を持ち、民主主義の前提が文化として人々に根付いていないこの国では、「主人の偉大さを背景に奴隷頭(奴隷の中の管理職)として奴隷に呼びかける」という橋下氏の手法が大衆扇動として成立してしまうということです。