11年。
2011年3月11日、金曜日。
東日本大震災の当時。
あたし(当時29歳)は御茶ノ水駅近くの雑居ビルにある飲食店で働いていた。
あの時間。
突然の縦揺れで、
頭上の食器が落ちそうになり身を呈して防いでいた。
ガスは止まり、
電車は軒並みストップ。
もう営業は出来ないのではないかと思ったが、
夕方頃にはガスが復旧したので、
そのまんま営業時間まで働いた。
営業時間終了した23時頃。
片付けがてらガラケーのワンセグでテレビを付けて愕然とする。
震災地・宮城県が火の海と化していたからだ。
自分も悠長に構えてはいられなかった。
何しろ電車が止まっているので自宅に帰れない。
そう。
帰宅困難者ってヤツだ。
最初は近くの明治大学が開放されていたので、
大学生に混じって休もうとした。
しかし。
どうしても帰って自宅の状況を確かめたかった。
その思いが強くなってしまい、
遂に明治大学を後にして自力と帰宅しようとした。
当時JRが軒並み止まっていたので、
地下鉄なら行けるだろうという、
今思えば甘過ぎる目論見だった。
そんな甘い考えなぞ通用するワケもなく、
千代田線は電車がホームで立ち往生。
当時葛飾区金町に住んでいたので、
直接の路線であるJR常磐線での帰路が絶たれてしまった。
回り道して帰れないかと思い、
御茶ノ水から秋葉原まで歩いた。
秋葉原から日比谷線を頼ったが、
北千住へ向かおうとしたが電車は上野で折り返しであった。
上野でずっと立ち往生していたが、
ここで機転を利かせ押上から自力で歩けないかと考えた。
幸いにも半蔵門線が動いていたという情報を得て、
上野から三越前まで向かう。
三越前で半蔵門線に乗り換えると、
目論見通り押上行きの電車が控えていた。
押上より先直通していた東武線が線路点検が入ってしまい、
やはり北千住方面に向かう事は不可能だった。
電車を諦めて、
押上から金町まで歩く事に。
・・・とは言ったものの。
やはり疲労が溜まっていたし、
押上に着いた時はとっくに日付は変わり、
何なら朝日が昇ろうとする時間を迎えてしまっていた。
もうダメかと思いながら、
ひと駅歩いて京成曳舟駅付近。
なんと、
幸運にも京成押上線が運転を再開していたのだ。
ここぞとばかりに足を動かし、
何とか電車に乗り込んだ。
高砂駅へと向かい更に金町線で金町へ。
あまりの安堵に、
ブログで「何とか帰れました」と打っていた記憶が。
当時住んでいた金町のアパートもギターが1本だけ倒れてしまっていたけど、
布団の上で倒れていたので特にダメージは無かった。
安堵のせいか、
疲れのせいか、
その日が休みだったからか。
泥のように眠って3/12を過ごす事となった。
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あれから11年後。
世間ではこんなにも疫病が流行るとは思ってもいなかった。
何か生きづらい世の中でも、
何とか生きている。
それとも、
生かされているとも言えるのか?
答えが分からないまま、
この先も生きていくのかもしれない。