映画『詩人の恋』感想 その涙は誰のためか
単純に「恋」とはいえない複雑な愛情の物語でした。映画『詩人の恋』感想です。
済州島で暮らす詩人のテッキ(ヤン・イクチュン)は、詩作をしながらも、生活は妻のガンスン(チョン・ヘジン)に頼りっぱなし。小学校で子どもたちに詩を教えてはいるが、雀の涙ほどの収入しかなかった。
子どもが欲しいというガンスンにせがまれて妊活を始めるも、テッキは乏精子症と診断される。いたたまれずに落ち込む日々を過ごすテッキを救ったのは、近所に開店したドーナッツ店の味だった。毎日通いつめる内にテッキは、そこで働く美しい青年のセユン(チョン・ガラム)に目を奪われるようになる。セユンは、寝たきりの父親の看病のため、学校にも通えず働く人生に、鬱屈とした思いを抱いていた。
テッキはセユンの哀しみに触れることで、詩人としての自分を取り戻し、心の底から彼を救いたいと思い始めるが…という物語。
キム・ヤンヒ監督による映画作品で、主演のヤン・イクチュンは、『息もできない』での主演・監督や、『あゝ、荒野』での菅田将暉との共演が有名ですね。特に『息もできない』は、自分の中での韓国映画ベスト、人生での映画ベスト10には入るくらい大好きな作品です。
『息もできない』では、女でも構わずに殴り散らかすイラついたチンピラ、『あゝ、荒野』では、気弱で心優しいけれど引き締まった身体をしたボクサーという役どころでしたが、今作では、だらしないお腹をした中年男性という、また全然違う顔を見せてくれています。
タイトルとしては「詩人の恋」とあるので、テッキが自分のセクシャリティに向き合う同性愛がテーマにも見えるんですけど、個人的にはあまり同性愛的な感情とはまた違う印象を持ちました。
確かに、テッキが不妊治療のために精子を採取する時、セヨンと女性のラブシーンを目撃したことを思い出して放出してしまい、セヨンに興奮していたのではと考える場面があるので、性愛的な感情を持っているようにも見えます。
解釈が分かれるところかもしれませんが、僕としては性愛によるものではなく、広義の意味での愛情の昂ぶりを象徴しているのではないかと感じました。
テッキが、妻のガンスンに「恋とはあなたなしでは生きていけないほど燃え上がるもの」と指摘されるシーンがあります(このガンスンという女性、口が悪くデリカシーのないキャラのように描かれているけど、ものすごく本質を捉えている人だと思います)。僕も、恋愛感情ってもっと自己中心的な感じに近いもの、ある意味では対象となる相手からしたら暴力になりかねないものという認識に近いんですよね。
そういう意味では、テッキのようにセヨンの心の拠り所になろうとするアプローチの仕方は、恋愛というより、広義の意味での家族愛に近いんじゃないかと思うんですよ。
韓国社会が、家父長制を重視していることを考えると、強権を振るう父性とは決定的に違うという描き方なのかなと思いました。
収入も少なく、妊活も上手くいかないテッキと、貧困にあえいで社会から必要とされていないと感じるセヨンは、韓国社会から除け者にされているという点で共感していくのは納得いく展開でした。
テッキがセヨンに求めていたものが何だったのかを考えると、序盤の生徒に教えている場面で出てきた、詩人としての役割と考えている「他人の代わりに泣いてあげること」だと思うんですよね。それまでは、自分の中にある哀しみを見つめて言葉を紡いでいた詩人が、他者の中にある哀しみを見つめることで、本物の詩人になっていく過程が描かれているように思えました。さらに、言葉だけではなくお金が必要という現実を認識する姿を描く辺り、メルヘン物語にせず、シビアさを突き付けてくる作品の姿勢も信用できます。
ただ、やはりテッキの感情を「恋」と描くのには違和感があり、セヨンと妻のガンスンとの三角関係のようにしていたのも、ちょっと納得がいかない部分ではありました。
先述したように、このガンスンという女性がテッキのことをよく理解していて、すごく良い奥さんに見えるんですよね。粗野な女性キャラみたいな扱われ方の部分が多くて、ちょっと残念ではありました。ガンスンには子どもという形だけでなく報われて欲しいし、その後のテッキとガンスンがどう決着を付けたのか、エピローグでも描いて欲しかったです。
この作品の根幹にあるのは、やはり「他人の代わりに泣いてあげること」という優しさなんだと思います。ラストシーンもそこにかかっているものだと感じました。
テッキが流した涙は、詩人としての他人のための涙か、それとも個人としての自分のための涙か。観る人に委ねる終わり方で、印象に残る秀逸なものでした。
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