映画『名もなき生涯』感想 大自然の視点から描く人間の葛藤
久々に理解の及ばない高尚な作品でした。映画『名もなき生涯』の感想です。
オーストリアの山地にある農村で夫婦として暮らすフランツ(アウグスト・ディール)とファニ(ヴァレリー・パフナー)。子どもにも恵まれ、このまま仲睦まじい暮らしを続けるはずが、ナチスドイツにオーストリアが併合されたことにより、戦争の影が近づいてくる。軍事訓練で招集されたフランツは、ナチスの動向を目の当たりにして、美しい祖国が崩れていく姿に強いショックを受ける。フランスの降伏により、戦争も終結に向かうかに見え、フランツは家族の元に戻ることを許される。ところが、戦火は消えることなく、村の男たちは再び招集される日が近づいてくる。フランツはキリスト教徒として兵役の拒否を公言したことにより、妻のファニを含めた家族全員が村人から迫害を受けるようになる。ついに召集令状が届き、フランツは自ら出向き、ナチスドイツへの不服従を宣言して逮捕される…という物語。
『シン・レッド・ライン』『ツリー・オブ・ライフ』などで知られる巨匠テレンス・マリック監督が、兵役を拒否して処刑された実在の農夫フランツ・イェーガーシュテッターを描いた作品だそうです。はい、さらっと結末に触れてしまいましたが、「ラストどうなる?」を観るための作品ではないのですよね。
物語としてはあらすじの通り、信念を持って兵役を拒否する夫と、それにより村八分の扱いを受けながらも夫の想いを尊重して耐える妻というのを中心にして描いているんですけど、作品の主軸はそこではないんじゃないかと思います。
舞台となっているオーストリアの山々の風景が、とても美しい映像として撮影されているんですけど、それがこの作品のメインというか、ずっと変わらない視点で描いているという印象を持ちました。
その自然風景の中の一つとして、人間たちのドラマがあるという感じで、神とかそういった超越的な存在の視点で、とてもデカいんですよね。
だから、夫婦や家族の美しい愛も、戦争や差別という愚かな行為も、良い悪いという印象よりも、それぞれですら森羅万象の一つでしかないという描き方なのかなと思いました。
夫のフランツの信念は、キリスト教の信仰心に基づくものだとは思うんですけど、終盤に向かうにしたがって、もっと別なものに変容しているように見えました。
フランツの正しさというものは、家族に負担を強いるという見え方もされるもので、実際にそう指摘されているシーンもあるんですけど、やっぱり決して美しいだけのものではないと思うんですよ。
すぐに戦争に参加させられるわけじゃなく、形だけでもいいから服従の意思表示をという提案にも、頑なに否定して、自ら死に向かうんですけど、その姿は、普通のキリスト教徒というよりは、日本の江戸時代に迫害されて、踏み絵を踏まずに処刑されていった切支丹に近いものを感じます。
終盤の方の尋問で、ナチスから自分を裁いているつもりかと聞かれ、フランツはそんな目的ではなく、自分の中の正しさに従っているだけというような答えをするんですけど、この時の瞳が、人に非ざる者というか、動物的に見えたんですよね。
フランツの正しさは、人としての美しさとかを超えて、もっと動物や自然の本能的なものになって確立していったんじゃないかと思うんですよ。
それが自然描写の映像と繋がっていくと思うんですけど、つまりは戦争という非自然的な行為のカウンターとして、人としての美しさも超越した、大自然の正しさを描こうとした作品なのかなと思いました。
ただ、これを3時間の長尺で描き、物語はシンプルでありながら、台詞もかなり観念的なので、正直、集中して観るのが難しかったです。眠ることはなかったものの、意識が外れていることが多々ありました。
けれど、これをもっとドラマチックに演出して観やすくしてしまうと、先のような哲学的なメッセージは消えてしまい、フランツの信念がただ家族を顧みない身勝手なものの印象になってしまうので、この尺は表現として必要なものだったんだろうとは思います。
久々に、自分にはまだレベルの及ばない作品を観たという印象でした。