胎盤早期剥離から3年
私はこれまで生死を自分ごととして考えたことがない。
周囲に亡くなる方がいても、それは自然なことであり私自身はありがたいことに生きており、それが普通だと思っていたからだ。明日死ぬかもしれない気持ちで毎日生きる!なんて言ったところで長続きもしないだろう。
そんな私だが、生死が身近に感じられたのは娘の出産時だ。娘は予定日の1ヶ月前に胎盤早期剥離によって突然産まれた。
この娘の出産において、私が生涯忘れることのないであろうことは2つある。連絡を受けた時の感覚とNICUに入った時の恐怖である。
一、突然の連絡
里帰り出産だった為、妻と長男を実家に預け東京に戻った翌日、目を覚ますと午前4時頃大量の着信が残っていた。全て義母と妻からであり、異変を感じ病院へ行き、胎盤早期剥離の為、即座に帝王切開するという内容だった。青天の霹靂だったが私は会社を休み、即座に妻の元へ向かった。
色々を整理しながら新幹線の中で胎盤早期剥離について調べた。まず目に飛び込んできたのは
「突然発症し、急激に進行する。そして、ママと赤ちゃんの生命に危険が及ぶ」
だった。あの時の衝撃は今でも忘れない。調べれば調べるほど危険性の高い症状である事が分かり、体温が急激に下がり、世界が灰色一色になるような感覚だった。
今妻に話すと「縁起でもない」と言われるが、私は「妻と娘の葬儀」「長男にどう伝えるか」この2点を考えていた。つまりとても冷静だったのだ。むしろそれらのことを考え、気持ちを紛らわせないと不安だったのだと思う。
葬儀の手配、費用がいつ・どれくらい必要か、誰を呼ぶか、どう伝えるか等新幹線の中で悶々と考えていた。周りから見れば仕事でもしているかに見えただろう。
二、NICUの恐怖
結論から言えば、妻も娘も無事であり現在も健康的に生活ができている。しかし産まれた娘に会いにNICU(新生児集中治療室)に入った時は、これまでに経験したことのない感覚になった。
未熟児だった為、娘は保育器に入っていたが第一印象は「こんなに小さくて生きれるのだろうか」である。娘は両手に収まるほどの大きさだった。肺の形成も途中だった為人工呼吸器をつけ、それ以外にも体には色々な管がついていた。それでも懸命に呼吸をしている姿は愛らしく、心の底から「元気に育て」と願った。
NICU内では基本的に写真撮影が禁止と説明を受けていたが、中に入ればそれも当然だと理解できた。正に私が恐怖したのはココである。
NICU内には、救われた命と失われようとしている命がたくさんあったからだ。
遠い場所ではご家族が産まれた子を抱きながら涙していた。他の保育器には恐らく奇形のお子さんがいた。娘よりさらに小さなお子さんもいた。
娘の側にいたいと思ったが、私はその場にいるのが怖くなった。早く出たいとも思った。ここにいるお子さんたちの無事を祈るだけで私には何もできないからだ。ここにいる資格がないとも思った。
医療(命)の最前線はなんと過酷な環境なのか。私は医療関係者全ての方に改めて感謝するようになった。
その後
前述したが妻も娘も元気である。娘は後遺症で聴力が弱いかも知れないと言われていたが、現在全く問題なく成長している。本当に幸運だと思う。娘の出産で人の生死に触れ、私も色々なことを考え、一層人として成長したと思っていたが
ちょうどその一年後に精神を病み休職した。
もちろん今は復職して1年以上経ち心身ともに健康である。まだ35年しか生きていないが、色々なことが起きるものだ。
娘の出産を書いていると今でも体温が下がる感覚だが、今日の夜はいっぱい遊んでやろうと思う。
ありがとうございました!