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わたしと料理

 前回の記事で、よっぴに料理を褒められたことを書いたのだけど、改めて、私と料理の関係性を振り返ってみた。
そしたら、なかなかに壮大な人生のストーリーが見えてきた、というハナシ。
 

料理好きになるきっかけをくれた
おばあちゃん


 
母が看護師をしており夜勤などもあったため、赤ちゃんの頃から小学校中学年くらいまでは祖母の家に預けられることが多かった。
おもちゃの類はないので、子どもながらに遊びを生み出していた。段ボールで秘密基地を作ってみたり、掃除を手伝ってみたり、お絵描きや塗り絵をしたり。毎月買ってもらう『りぼん』の付録でもよく遊んだ。夜はおばあちゃんとひいおばあちゃんと一緒にベストテンや暴れん坊将軍を観て、必ずヤクルトを飲んでから寝ていた(おかげで乳歯は虫歯だらけ笑)。
 
なかでも一番楽しかったのがおばあちゃんと料理をすることだった。
小さなまな板とフルーツナイフを用意してもらって、さながらミニチュアキッチン。大好きなきゅうりを切ったり、えびの殻をむいたり背ワタを取ったり、手綱こんにゃくの作り方を教えてもらったりした。揚げたての天ぷらを口に放り込んでもらったときのおいしさ。水分をしっかり拭き取ったはずなのに、やっぱりイカはバチンバチンと油がはねるのがおもしろくて笑う私と、熱さに耐えながらも揚げ続けるおばあちゃん。二人で油から逃げながらきゃーきゃーと料理するのが楽しかった。

お手伝いにもならないような遊び。料理の邪魔になっていただろうに、根気よくつきあってくれたおばあちゃんには感謝しかない。

おばあちゃんが作るメニューはそれほどレパートリーがなくて、「おにしめ」「茶碗蒸し」「天ぷら」「お漬物」あたりがよく出てきた。おにしめの意味もよくわかっておらず、祖母が作るそれそのものが「おにしめ」という料理なのだと思っていた。茶碗蒸しがおいしくて大好きで、大人になってからきちんとレシピを教えてもらった。コツはだしで具を予め似ておくこと。そうするとしっかり味の入った食べ応えのある茶碗蒸しになる。
 
はちみつ漬けの梅もよく食べさせてもらった。はちみつの瓶に梅を入れて冷暗所で寝かせただけのそれは、数年たつととても味わい深く、どこにもない、とっておきのおやつになった。私の梅好きはここから始まっている。果肉はもちろんだけど、シロップがおいしくて水で割って飲むのが大好きだった。あのころプレーンの炭酸があればなぁ。
 
おばあちゃんの料理はどれもおいしくて、東北ならではの塩気で舌ができてしまった感はあるけど、しっかりと私に受け継がれている。おばあちゃんのようにいちからおせち料理は作れないけど、「おいしいものを大切な人に」という気持ちは3歳のころから培われてきた。
 
もう認知症が入って、私のこともわからなくなってしまった90歳超えの祖母。
帰阪したときはまだコロナ禍ではなかったため、施設にいる祖母に会いに行くことができた。手を握りしめながら「おばあちゃんのおかげで料理が大好きになって、それが仕事にもつながったよ。だから本当にありがとう」とぽろぽろ泣きながら伝えた。状況がよくわかっていない祖母は「あぁ~そうなの。よかった」とニコニコしていた。
 
 

料理の奥深さ、広がりを教えてもらった
料理研究家の方々


 
祖母のおかげで料理好きになった私。
田舎で育ったこともあり、ケーキと言えば「タカラブネ(不二家)」くらいしか選択肢がなかった。
あとは、祖母が年に数回連れて行ってくれる京都大丸店。毎回必ず買うのは、ババロアの上にフルーツのセリー寄せがのったもの。キラキラしていて宝石みたいだった。
普段からお菓子を買うという習慣がなく、おばあちゃんが出してくれるお菓子はかりんとうとかお煎餅だったので、誕生日やクリスマスに食べられる特別な洋菓子は私の心をワクワクさせてくれた。
 
そんな小学生時分、母が千趣会(今はベルメゾン)の「やさしいお菓子作り」というキットを購入してくれた。クッキー、チョコレート、ゼリー・ババロアなど毎回テーマが決まっていて、基本のものからアレンジまでレシピがたくさん載った本と、製菓道具がセットになっていたもの。セルクルやヘラ、ナッペ用の台、温度計など、なかなか肝をついた内容だったといまになって思う。
母も料理教室に通うほどだったから、私にも楽しさを教えたかったのだろうか。

一人暮らしをするときも道具たちは持っていき、以降、引っ越しの度に捨てることなく私と人生を共にしている。さすがに本は捨ててしまったけれど、ページの間に粉や生地が挟まるほどには使い込んだし、メモも書いていた。
あのころ、バニラエッセンスもリキュール類もまだ高かったなぁ。しかも全然使い切れずに、蓋が開けられなくなるくらい固まって終了。
 
小学6年生のバレンタインは手作りのチョコレートを渡し、中学・高校時代には友人にクッキーやババロアを振る舞ったり、私の家で一緒にお菓子作りをしたりしていた。
いま思うと微妙な味と思うが、みんなおいしいと喜んでくれたことがうれしかった。お菓子作りって喜んでもらえるのだと知る。千趣会の本では物足りなくなっていたけど、レシピ本は高くて買えないから本屋で眺めるだけ。1ページにどーんと載った一枚の写真には、スタイリングされた美しいお菓子がおさまっており、食べるシーンや生活スタイルまで想起させるような気持ちになり、見ているだけでワクワクしていた。昔の料理写真って驚くほどスタイリングに凝っていて、世界観がすごい。
 
20代にして編集の仕事に就き、3日連続徹夜とか2か月休みなしという殺人的スケジュールを送っていた私に、転機が訪れた。
 
東京で編集をしていた人と中途採用で一緒に働くことになった。とても頭がよく仕事ができる人だったのでさすが東京で鍛えられた人!と思っていたが、聞けば、編集プロダクションでレシピ本の企画編集をしていたとのこと。
 
レシピ本って編集者がいるんだ!!
 
何も知らなった私は衝撃を受ける。編集者が企画を立て、著者と打ち合わせなどをし、撮影や執筆をして本にする。レシピ本だろうが小説だろうが紙媒体はそういうものなのに、考えたことすらなかった。著者が勝手に考えて、勝手に発行しているとでも思っていたのだろうか。
 
そこでふわっと「レシピ本を作ってみたい」と思うようになり、その人に経験談や仕事ぶりなどを教えてもらった。
そしてある日、その人に言われたのだ。
 

ろっかさんは仕事もできるし、情熱もあるから、レシピ本の編集向いてると思うよ


 
 
人生が決まった。
そのころ、仕事が多忙を極めて心身ともに限界がきていた私は転職を考えていた。同じ編集を続けるなら、好きな媒体に関わりたい。
ただし、調べたところレシピ本を刊行しているのは東京の大手出版社ばかり。どの本の奥付を見ても名だたる会社なうえ、そもそもそのジャンルを手掛けている会社自体が多くない。関西で“食”に関わる本といえば、レストラン情報を扱うガイドブックばかり。
 
東京へ行こうか…と考え始める。東京の人と遠距離恋愛をしていたことが私の背中を押した。
このとき29歳。上京するならギリギリだと思った。前述の同僚が私のことを推薦してくれたことも大きかった。
 
晴れて東京の編集プロダクションに入社した私は、数多くのレシピ本を企画・編集し、世に送り出すことができた。
 
打ち合わせも校正も楽しかったけど、何より撮影が本当に幸せだった。もちろん立ち会いの立場なので楽しいばかりではなく、とても緊張するのだけれど。
 
先生が作ったおいしいものをいただけるなんて、編集者の特権!!
私が担当した先生方は、撮影とはいえちゃんと良い材料を使うし、ちゃんと味付けもしてくれる(料理によっては色をきれいに出したいから味付けしないパターンもある。特に広告系)。
焼きたての香り高いフィナンシェを食べたときの感動は一生忘れないと思う。
 
先生やアシスタントさんが作ってくれるまかないも本当に贅沢だった。初めてそこでキャロットラペというものを知り、作り方を教えてもらってからはお気に入りになった。スタッフみんなで大きなテーブルを囲んで、わいわいごはんを食べる楽しさよ。まかないを食べすぎてお腹パンパンになって立ち上がれなくなったこともあった笑
 
仕事だからきちんとはするけれど、私にとっては憧れの先生に直接レクチャーしてもらえて幸せだったなぁ。一つひとつの動きも無駄がなくて美しくて、仕込みからずっと眺めていた。
 

バニラビーンズがたっぷり入ったあんずコンポートのおいしさ
私の好きなフルーツはバラ科ばかりなこと、八角がよく合うこと
桃を煮るときは皮も一緒に入れると美しい桃色になること
どんなスパイスやハーブも受け止めるキャロットラペの自由さ
生クリームとキムチでおいしいカレーができること
バターによって変わる焼き菓子の風味
キャベツの塩炒めにクミンを入れるだけでごちそうになること
生クリームは冷蔵庫のポケットに保管してはいけないこと
おいしく食べるためのパンの保存方法
スペインにはポルヴォロンという素敵なお菓子があること
 


書ききれないほどのたくさんの知識を授けてもらったことに改めて感謝したい。
そしてあのとき、お菓子作りの扉を開いてくれた母にも多大なる感謝を。

 
 

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