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眩しい午後
今日は「シン・エヴァンゲリオン」を観にいって、二回目を観にいって、観る前は結構チケット取っちゃった、散歩とかしたいけどなあ、とかなんとか思っていたけれど、観終わるとやっぱり観てよかったと心から思った。一回目は色々と受け取るのに必死で、二回目になってようやっと、わたしの呼吸で映画を観れた気がする。
帰り道、どうしても胸から突きあがるなにか温度のある気持ちにいてもたってもいられなくなる。わたしは毎日なにをやっているのだろう、といやでも思ってしまう。わたしの毎日の仕事の中では、自分の伝えたいこととか、信念とか、深いところにある優しさとか愛とか、「本当のこと」みたいなのって、結構本当に誰も興味がなくって、それよりも、何が伝わるか、ということ、人々に届くためにどうすればいいかということ、そのことがやっぱりどうしようもなく大事で、そりゃ、その視点を見失ってはいけないとは思うけれど、エヴァンゲリオンを観たあとに残る温度は、とっても強いちからで、「本当を伝えようとすること」それ自体の美しさや、それ自体に宿る「生きていることの意味」みたいなものを訴えてくる。もっとも、じゃああした会社をやめましたっていって、それで叶う願望ではないし、明日になって仕事に行けばこんな気持ちは忙しなさの中で忘れることができるのだろうけれど、それでも、わたしはこれからも「伝わること」よりも、「伝えたいこと」を信じていたい。そこに宿る、ことばでは言い表せなくって「みんな」には通じない、でもあなたには伝わる"何か"を大切にして、愛してみたい。そんな風にして、毎日を過ごし、だんだんと年齢を重ねていきたい。いつか死んじゃうって思ったら、今すぐにでもそうやって、色んな人に迷惑をかけても「伝えたいこと」を絶え間なく意識して、沢山のことを考えて、何かを作っていきたいと思えてしまう。
と、こう書いてはみたけれど、本当は、こんな温度はずっとは続くわけはなくって、多分数年前なら続いていたのかもしれないけれど、あの頃よりは随分と変に大人びてしまっているから、感情は容赦なく風に冷まされていく。
それでもきっと映画を観たたくさんの人がそうしたように、やっぱり帰りの電車ではエンドロールに流れた音楽を聴いて、明日からの毎日を忘れていた。
「吹いていった風の後を 追いかけた 眩しい午後」
音楽が終わって、エヴァンゲリオンが終わって、わたしはこの時代に生まれたことってどんな意味があるんだろうとか、そういう所からつらつらと考えて、考えが止まらなくって、いつかは自分の気持ちと毎日にまっすぐ線が引けるような、「伝わる」より「伝える」に命を削る、例え生活や精神が不安定になってもそんな毎日になっていますようにと今一度願う。その一歩になっているかは分からないけれど、わたしは今日の恥ずかしいくらいの気持ちも、数日たったら赤面してしまうような気持ちも、こうして言葉にしてみた。