企業戦士に人間の心を取り戻す
「対話」に興味をもつに至った背景を遡っていくと、上司と全く意思の疎通ができなかった体験にたどり着く。価値観の相違や言語的なコミュニケーションの問題だけではなく、根本的に全く話が嚙み合わない違和感がそこにはあった。上司が発する言葉だけでは今一つ理解が及ばず、問いを重ねても掴みどころが不明。言語外の情報から真意を得ようとしても、どうもヒントになるものが得られない。そこで頭に浮かんだのは、上司の頭の中、腹の中には本人から湧きおこるものが「何もない」のでは?という仮説。
教科書的な情報をインプットし、外からの刺激で情報にアクセスしてなんらかのアウトプットはするものの、出てくるものは非常に機械的で、そのど真ん中に人間らしさ、人間臭さ、がなかった。いや、「本人らしさ」と言い換えた方がいいのかも。脳が反射的に対応しているだけで、ハラ落ち感ゼロ。
その後、様々に観察を続けていると、その上司に限らず、なんらか「本人らしさ」を失っていそうなケースに幾度となく遭遇した。右向け右、目上の人に絶対服従、異論を唱えると「口ごたえ」と見なされる環境で生き抜いてきた哀しき昭和のサラリーマンたち。(言いなりになってればそれでOKというのも、それはそれで楽だったのかもしれないが)
元々、日本人は「和」を大事にする文化で、空気を読むことが重んじられてきた風潮は強いが、さらに企業内では上司の顔色を伺うことが第一で、「本音」を出すことなど有り得なかったのだろう。結果的に、「本音」をそっと心にしまっておくどころか、すっかり「本音」を見失ってしまった人たちが数多くいるように感じる。自分のことはすっかりおざなりにしてしまって、会社の戦略や経営陣の方針や、上司の言い分にばかり耳を傾けてしまう。
もちろん、組織運営を効率よく、統率の取れたものにするには、周囲と歩調を合わすことは極めて大事なこと。でも、自分を見失ってしまっていいのだろうか、企業人である前に、一人の人間であることをもっと大切にしてもいいのでは?という大きな疑問がぬぐえない。
会社を、一人ひとりが、もっと人間として尊重される場にできないか。会社の中で「尊厳」が守られることはそんなに難しいことなのだろうか。
上司に「本人らしさ」がないと前述したが、上司とのやり取りで感じた違和感は、「わたしらしさ」への注目も一切なかった点にもある。個性を大事にしてほしい、というレベルでもなく、「(記号的な)女性社員」としてではなく「一人の人間」として認識されているのだろうか?と何やらモヤモヤすることが度々あった。
自分の意見を口にせずに、上司の言い分に耳を傾けてきた人たちは、当然のように部下の言い分には全く関心を示さない。目の前の部下を記号や機械、部品のように、時には、まるで空気のように扱う。
他者(部下)を「一人の人間」として認識できるようにするには、なによりも上司自身が自分を大事にすることから始まるのではないか。そこで、巡り巡って、「人間らしさ」「本人らしさ」を取り戻すために「対話」がツールとして有効なのでは?とたどり着いた次第。
私にとっての「対話」の価値は、自分の反応や感覚に耳を傾けるきっかけになることだと考えている。自分自身を大切にすること、自分の本音とつながることなくしては、他者と真に適切な関係を築くことは難しい。一人で瞑想する、自己観察することで自分の本音とつながることも可能かもしれないが、他者とのやり取りを通して、より立体的に自分自身を把握ができるようになる。多様な他者と触れ合うことで、世界がカラフルであり、また、違いの中にも共通点が見いだせることにもなるはず。多様な場に身を置けば置くほど、世界に明確な境はなく、グラデーションで成り立っていることにも気づいてくるかもしれない。
「自分の本音」を大切にするということは、個と個の対立を生みかねないという懸念もあるかもしれない。でも、私の中にあるものに解像度高く静かに耳を傾けていくと、「私とあなた」の一体性にもどこかでたどり着くはず。
「私とあなた」は決して対立するものではない。けれど、”同じであること”に共通理解がなければ、実際のところ、なかなか歩み寄った関係性とならないのも事実・・・。
『対話する医療』の中で、フレイレ『新訳 被抑圧者の教育学』からの一節が紹介されていた。
「言葉を話す権利を否定しようとする人」とは、他者を空気のように扱って相手の言葉に耳を傾けない人のこと。そして、自分自身の言葉にも耳を傾けていない人、とも言えるのではないだろうか。「本音を語れない、語らない」という長き会社員生活の中で、自分の言葉を失ってしまった企業戦士たち。
まずは、自分の本音につながることから始めたい。そのツールとして「対話」がパワフルに効いてくる、はず。