
持てる者が持たざる者へ
アフリカだけに限ったことではないだろうが、「持てる者が持たざる者へ」金銭的に支援をする、何かをあげるということが当然と思われている場面には、とても頻繁に遭遇する。
歴然とした経済格差があるからというのが大前提にあるのだが、これは援助慣れという言葉では単純に語り切れない。
個人的な友人関係でも、何となくわたしが払うことになっていることがよくある。
それは、格差という意味では自然なことかもしれないが、日本人的感覚からすると驚くことがある。あまりに依存しすぎているのではと、驚き不快にすら感じることはあるだろう。
わたしに対して金銭的な依存をしないよう気を付けているひともいるが、ふとした瞬間に、会話の中で「あなたこれを買ったら?」とうかつにも言ってしまったわたしの発言を、わたしが払うものと誤解されたこともある。
このあたりに、いつも文化の違いを感じ気をつけねばとは思うのだ。
こういうことを依存と切り捨ててしまうのは、短絡的すぎるだろう。
政府が不安定で経済的にも失業率が高いなど、日本とは違う意味で不安が大きい国の暮らしでは、社会的ネットワークはいわばセーフティネットだ。
個として捉えれば依存に見えてしまっても、そのひとはもしかしたら親戚の子どもを何人も養っているかもしれない。そういうことなのだと思う。
家族とか、社会的繋がりを大切にするのは多くのアフリカ社会でも感じるところだが、少し面倒なのは日本の開発協力としての仕事における現地とのかかわりかもしれない。
何せ、日本政府の技術協力プロジェクトともなれば、基本的には技術協力だから直接の資金的支援は厳しく決められた用途に限定される。その中でも融通を効かせようとなんとかしようとはするのだが、何せ、相手国カウンターパートの運営キャパシティが低かった場合、そもそもの決められた事業が立ち行かないことも少なくない。
そんなとき、なぜお金をくれないのかという目で見られることもある。
持てる者が持たざる者に施すという、仕事のルールよりも一種の社会的慣習が重視される空気がある。そして、組織のルールを守ろうとすると、嫌われる。なんてことがよくあった。挟まれている側としては、とほほ案件でしかない。これは日本の援助プログラムの仕組みづくりの限界なのかもしれないけれど、責められるのはこちらだとたまったものではないなぁと思うことも少なくない。
でも、そもそも日本の基準をアフリカに持ち込んで仕事をしている方が、普通に考えてちょっとおかしいんだろうなぁとも思う。
社会的繋がりを大切にする。自分たちの生活を大切にする。
だから、家族の用事を仕事よりも優先して、仕事が滞ることもある。
締め切りのある日本の政府の仕事をしている側としては、わー!どないすんねん!と声をあげてしまいたいところだが、こういうのも開発ワーカーのあるあるなのだと思う。
仕事としては超ピンチ。
でも、家族を優先するという人間としては大正解のことをしているのだと考えれば、それはそれで。
うむ。それでいいのだ。
ということを、アフリカに関わってきたこの四半世紀以上のあいだ振り回され、自分自身に唱え続けている。

エッセイ100本プロジェクト(2023年9月start)
【46/100本】
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