見出し画像

#009 イエス・キリストの名を語って西洋文明がついた嘘ほど罪深いものはない|ベッシー・ヘッドの言葉|Novel

The contradictions were apparent to Makhaya, and perhaps there was no greater crime as yet than all the lies Western civilization had told in the name of Jesus Christ. It seemed to Makhaya far preferable for Africa if it did without Christianity and Christian double-talk, fat priests, golden images, and looked around at all the thin naked old men who sat under trees weaving baskets with shaking hands. People could do without religions and Gods who died for the sins of the world and thereby left men without any feeling of self-responsibility for the crimes they committed. This seemed to Makhaya the greatest irony of Christianity. It meant that a white man could forever go on slaughtering black men simply because Jesus Christ would save him from his sins. Africa could do without a religion like that.
"When Rain Clouds Gather" (1968)
マカヤからしてみれば矛盾は明らかだった。イエス・キリストの名を語って西洋文明がついたたくさんの嘘ほど罪深いものはない。アフリカにキリスト教儀やキリスト教徒の二枚舌、貪欲な宣教師たちや金色の偶像なんかなくても、ぐるりと見回せば震える手で木の下に座ってかごを編む年老いた男たちの姿があるほうが、マカヤにしてみればよほどましだった。ひとびとは宗教や神がいなくてもやっていけるのだ。この世の罪のために死んで、その代り人間に自分たちの犯した犯罪に対する自責の念を負わせなかった神がいなくても。これこそが、マカヤにとってはキリスト教最大の皮肉であった。つまりそれは、単純にイエス・キリストが罪を償ってくれるからこそ白人たちは黒人を永久に殺戮し続けるという意味であった。アフリカには、そのような宗教など必要ない。

1968年に発表された小説When Rain Clouds Gather(雨雲のあつまるとき)の一説。南アフリカから国境フェンスを超えてボツワナに亡命した元ジャーナリストで「政治犯」のマカヤは、アパルトヘイトの南アフリカとはまるでちがうボツワナの農村で暮らす。これは、敬虔なクリスチャンである老女を前に、初めて心の中の激しい感情が爆発する本当に強烈で印象的なシーン。穏やかで無口な好青年だった彼の、心の底にあるものが初めて開かれる。
マカヤの中での「キリスト教」に対する強い反発が、それまでの人生での苦しみや多くの苦悩とともに一気に噴き出してくる。

このシーンは強烈で、印象的なのだが長いのでこのキリスト教に関する一節のみ引用する。わたしは、何度読んでも涙が滲んでくるくらい、この小説では大切なシーンだと思っている。

ぜひ、原文で読んで欲しい。

作家ベッシー・ヘッドについてはこちらのマガジンをご参照。

メインブログ『あふりかくじらの自由時間』


言葉と文章が心に響いたら、サポートいただけるとうれしいです。