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ボランティアだって「見返り」は欲しい。

今回は自分の本音を書き綴る。
海外協力隊として活動をして、1年と8ヶ月。
1年目と2年目で、全く自分の心の持ちようや考え方が変わってきたように思う。

1年目は、とにかく
その日できることに全力で過ごしていた。
目の前のことに一所懸命で、
他を顧みないようにしていた。
そうしていないと心が折れそうだった部分もある。
脇目もふらず、嫌なことや気になることに目を瞑っていないと、残りの期間が長すぎて。
自分が潰れそうで。
醜い部分に蓋をして、見てみぬふりをして
無理矢理ネガティブ思考にならないようにして
無理矢理ポジティブ思考を貫くようにして
駆け抜けてきたところもあったように思う。

しかし活動2年目になって。
ある程度活動にも目処が立ってきて、
余裕が出るようになってきて、
帰国日が視野に入るようにもなってきて、
頑張らなくてもいい日も増えるようになってきて。
嫌でも気づいてしまう部分が増えた。



私、ずっとウガンダで生きていきたくはないかな。

最初に断っておくが、ウガンダという国を悪く言いたいわけではない。
ウガンダにはウガンダの良さがあって、
それは時に日本には無いもので、
素敵なところ、面白いところもある。
例え悪いところがあるとしても、
それを含めてそれは彼らの文化であり
彼らの人生であり国であり、
そういうものなのである。
否定する権利も理由も私にはない。

が、私はここでずっと生きていくことはしないだろうと思う。

見返りが、ほしい。

見返りとは、人によって定義やほしいものは違うだろうとは思うが、私の場合、
「他人からの感謝」
「自分の中でのやりがい」
「最低限+αのお金」

この3つがほしい。

1. 他人からの感謝

まず他人からの感謝についてだが、
ボランティア活動をしていて「相手からの見返りを求めてはいけない」などという文言があるが、私はそれはただの綺麗事であり戯言だと思っている。
見返りなしに、一体どうやってモチベを保てというのか。
私だって一人間だ。
何かをすることは当たり前ではない。
もちろん法外な金銭を要求したりこれをやってあげたんだからお返しがあって当然だろ、というのは違うけれど、
自分が何かをした時の「ありがとう」くらい、
あったっていいし求めたっていいじゃないか。

ウガンダでは支援されることが当たり前になりすぎていて、相手から何かを受け取ることはもはや消費作業になっているところがある。
与えた時の言葉としての「ありがとう」は確かにもらえるが、
心から心のこもったありがとうは意外と少ない。
何か与えたとてそれを雑に使われる
(あるいは使い方がわからないと捨てられる)、
壊れたり使い終わったらそのまま放置
人や物に対するリスペクト、それを大切にしようという思いがなかなか感じられない。

それに、与えたものを糧にして自分たちでどうこうしようとする気概が感じられない(例えば私が訴える意見、与える物の価値に気づいて自分達でそれができるようになりたい、ならなきゃダメだと自ら気付き学ぼうとする、持続できるようにするなど)
(※もちろん人による)。

私が与えるものも、
どうせ大切に使ってもらえないんだろうなぁ
いつか忘れられ無くなってしまうんだろうなぁ
と悲しくなったりする。
自分の善意、技術やできることが消費され続けると
無条件の善意の持続は難しくなってくる。

我儘かもしれないが、
ちゃんと価値を感じ、大切にしてもらいたい。
そしてそういう価値観が同じ人たちと一緒に働いていたい。

2. 自分の中でのやりがい

やりがい、というと
上に述べた感謝も含まれる気もするが、
突き詰めて考えると私が欲しいのは
自分がこれをやりたいと思う夢や情熱、
その夢を叶えられている充足感や満足感、
自分の知的好奇心を満たしワクワクさせてくれるような刺激や知見、
自分を高め成長させる経験。
そうして自分が突き進む道の先でさらに
「自分がやっていることが世の中、誰かのためになっているという実感」だろうと思う。

世界を変えるようなものすごく大きなことはできないにしても、今日私がやったことで
幸せになれた人が1人でもいること。
私から学びがあったこと。
助けになれたことがあること。
滞っていたところが進んだこと。
今までになかったイノベーションが生まれたこと。
私がいることで、何かにつながること。
今日私が生きている意味があったと感じられること。
重いと感じてしまう人もいるかもしれないが
そのようなものがあれば私は少し強くなれるし、
しんどい環境の中でも頑張ろう、と思える。

3. 最低限+αのお金

私は昔から大金持ちになりたいわけではない。
むしろ大金を手にするのは怖いと思うような貧乏精神だったりする。
でも、生活に少し余裕を持てるくらいのお金は普通にほしい。
ブランド品が欲しいとか高級ホテル料理を楽しみまくるとかそういう大贅沢には興味がないが、
ちょっと旅行したいとかちょっと美味しいもの食べたいとか。そういう時に困らず出せるくらいの余裕は欲しいと思っている。
だから自分がやっていることに対してはある程度のお金がやはり欲しい。
特に2個目で述べた自分のやりがいが感じられない状況であれば、余計に少なくともお金だけは欲しい。
人間として当然の真理だろうと思っている。

上記理由を述べてきたが、
ウガンダで活動していて、
私はこれを得られた実感があまりなかったし、
これからも得られる見込みはなさそうだなと思った。


私がコミットした活動をできていないから、
という私の力不足もあるかもしれない。
でもやはりウガンダという国の特性上、真の意味で精神的、金銭的なやりがいを感じるというのは(感じられるまでの道筋も込みで)なかなか難しそうである。
それを超えてまでここに止まる理由や、
支えたり救いたい人がいるというほどでもない。
それは協力隊という独特の形態で参加していたからなのかもしれないが…


ウガンダでビジネスをしていたり、ウガンダに進出している日本企業もいくつかある。
ウガンダで生活しているからこそ、
ウガンダ人とビジネスをすることの難しさ大変さは痛いほど理解できる。本当にすごいと思う。


ちゃんと時間や約束を守るとか、
物事がスケジュール通りにちゃんといくとか、
リスクヘッジをちゃんとするとか、
先々を見据えて余裕・策略を持った効率的な行動をするとか、
食や考え方のバラエティーとか
整ったライフラインとか
人の考え方、接し方とか
幸せの基準とか。
小さなことの積み重ね。
でも、2年間過ごしていくと
確かに塵積もで大きくなっていく。
生きていくことはできるが、
心穏やかに過ごせるかと言われるとそうとは言えない。
いや、生きていけるだけでもすごいのだけどね。笑

このようなウガンダという国の生活、
仕事スタイルに適応できない私は、
私に、問題があったのだろうか。



否。




例えば陸で生きている哺乳類が、
「海の方が資源も豊富で食べ物に困らないから」と海で生きようとしたとて、
「空を飛べたら移動が楽だし敵も少ない」と空で生きようとしたとて、
それは不可能であるように。

そこは、精神的な我慢や努力を超えて
「不適応」「無理」ということがあるのだ。


ただ「私が、そういう人間だった」
というだけのこと


そしてウガンダと日本で見た時に
好きなくともウガンダよりは日本の方が良いかなと思っただけで、
ボランティアよりちゃんとした仕事が良いかなと思っただけで、
草の根レベルよりもう少し上の世界で働きたいかもと思っただけで、
自分の本質(自分がどういう人間か)を前より少し理解して、自分の中の価値観や大切にしたいものに少し気づいたのだと思う。

冒頭に立ち戻るがこれは意外と、
活動1年目には気づけなかったことだ。
活動2年目も大半が過ぎて
終わりが見えてきて
気持ちも物も、少しずつ少しずつ手放していくようになった時。ふと、素直になって、思えたことだ。

採算いうが、
ウガンダという国が悪いわけではないし
ウガンダが嫌なんて思ってないし
なんならウガンダもウガンダ人も好きだ!
この活動期間の中でこれからもずっと連絡をとっていきたいなと思うような友達、同僚もできた。
そんな彼らと接する中で
日本ではできない経験をし、
感じられない感情を感じ、
自分と対話する中で
自分がどういう人間であるか
何に重きを置く人間なのか、理解が深まったのだと思う。

来て生活して活動しないとわからないことがたくさんあった。
人生経験レベルが上がっただろうし
海外、しかも途上国で生きることの楽しさと大変さ、さまざまな側面を感じられた。
これら含め大きな成果であり学びであろう。
そういう意味で「協力隊の2年間」に大きな見返りはあったわけだ。
きっとこれからの私を支え導いてくれるだろう。

ウガンダでずっとは生きてはいかないし
もう戻ってくることもないかもしれないと思う。
でもウガンダという国に来て、
ウガンダという国や人を知れてよかった。

チャンスがあれば、旅行とか、何かのついでとか、
期間限定の仕事とかはまたしてもいいししたいかな。
でも選べるならやっぱりウガンダではなくて
別の国に行ってみたいかな。


とりあえず残りの任期を楽しんで健康で無事にやり切ってたくさんの経験と思い出を胸に、
本当に(いい意味で)ウガンダに戻らなくていいや、と言える活動をしたいです。
あと4ヶ月頑張るぞ✌️


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