羽化と夏
今年の夏の終わりはいつからなのか。
私の気分は時折有りがちに飛行状態として例えることがある。
絶え間なく進む日々の時間や疲れを忘れるぐらい、仕事や趣味に溌剌に生きる状態の”高空飛行”と、疲れが時間に織り混ざって頭の中が少しだけ苦悩や葛藤で溢れる状態の”通常飛行”と、時々刻々と進む時間が疲れの重さに耐え切れずに頭の中から肉体に悪影響が出る常の”低空飛行”となる。
高空飛行状態は無敵の瞬間だ。ルックバックの藤野が雨の中でスキップした時の躍動が常にあるみたいに、嬉しさと誇らしさが身体中の神経を張り巡っては、日常の活力へと変えていく。
誰にも傷付けられない無敵さが私の身体を支配する。悪意味ではなく、全てを前向きに進めてくれる支配感が、この時には確実に生まれる。
中空飛行状態は文字通りに一喜一憂の瞬間だ。誰かに言われた賛辞や指導の言葉、自分の悪手な行動に対して人間らしく適応する。
一定的に保った精神は時間の進みを苦痛にも喜びにも感じる。とても人間らしい、生物の本質を捕食して脳に入れているような状態だ。
低空飛行状態は危うい瞬間。プラスがマイナスへと作用し、マイナスが極大して作用し続ける悪循環。
インクの切れかけたペンでノートを書く。気付けばインクは既に切れて、ノートを切り裂くだけの凶器になる。まさに低空飛行はこの状態で生きることを言う。
ここ最近は高中低の位置が頻繁に変わる。ひ弱な私の三半規管が常時狂わされるほどに、自分の気分の位置が目紛しく変わっていく。その自分しか分からない変化に気付いたのは今年の5月からだった。
何かの前触れも予感もなく、淡々と過ぎていく自身の”精神衛生状況”を指折り数えて考えていくと、その変化が過ぎった夏となった。
今は絶賛低空飛行の真っ最中。
誰かにSOSが出せる性格ではない。
またSOSが出せるほど深刻さも当の本人の私には感じない。そして問題なのがSOSを出そうと思う人がいない。
これは私の定義の外郭の問題なのだが、仲のいい人や心許せる人、そして気軽に笑える人は沢山いる。恐らく私は周りの人間の存在に恵まれている。その人たち、誰もが優秀で有能で優しい気持ちの持ち主たちだ。
実際その人達から休日の遊びのお誘いや飲み会、はたまた仕事での雑談を求められることは多い。僕もそれに基本的に乗っかりたくなるぐらい、素敵な人達と共にいる。
しかしそもそも私がその全ての人達に深淵を話す気が無いのだ。出しても根本の悪素は残ったままだろうし、解決を求めるために話すのも私の中の正義感が許さない。
26歳になって、やっと分かった。
多分私は、”話さない”人なんだ。
私は他人への信頼度によって物を話す人間ではなく、そもそも何も自発的に話さない人間なんだろう。だから心許せる人であっても、別にこれといって明確な言葉を乗せることもなく、その会話の流れに沿った自然な言葉を返すだけ。
本音、という言葉が持つ意味や意義に何か特別な思惑がある人間では無い。そこに対して壮大な嫌悪が乱立して、今にも狂いそうな私がいるわけでも無い。
ただ、話すことをしない、部分的会話の無気力さがある人間なのだ。
話は変わるが、私は昔から文章を書くのが好きだ。
文筆で人生のバランスを保とうと尽力をしたこともあるぐらい、活字として吐き出すだけで気分の浮き沈みが左右される。
だからたった今、私は少しだけ浮き上がった。
活字にしたら上がった。
単純だ、良かった。私はそれぐらいの人間で。
ただ今日も低空飛行、毎日宜しく。
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