【雑記】実録!マイオナオタクができるまで!
突然だが、このnoteを読んでいる皆さんは「マイオナ(マイナーオナニー)」という言葉をご存知だろうか。
マイオナとは、
という意味の略語で、要するに対戦ゲームでトリケライナーとかパチリスとかのマイナーキャラで活躍した人たちに憧れて、よく考えずにうわっつらだけ真似して、負けたら「やっぱり強キャラに勝てるわけなかったわwww」と責任を自分で選んだはずのマイナーキャラに押し付ける恥ずかしい人たちのことである。
現在ではそこから転じて、「どのジャンルでも流行・メジャーなものを意図して避け、主流でないものばかりを選り好みして楽しみ、流行・メジャーを見下す人」をマイオナと呼んだり、そういう性向がある人が自身をマイオナと自虐したりする。
これまで執筆したnoteで何度か述べてきたが、僕は後者の派生した意味でのマイオナであり(かつては原義のマイオナでもあったのだが、ここでは置いておく)、どのジャンルにおいても流行の作品に素直に触れることに抵抗を持っている。
これを聞いて、画面の前の読者の皆様はこう思ったかもしれない。
「えっ?有名だとか無名だとか気にせず、面白いと思ったものはどんどんチェックすればいいじゃん。なんでメジャーとかマイナーとかにこだわるの?」
そう思ったあなたは、1000%正しい。
メジャーだとかマイナーだとかのこだわりは、オタクか否かに関わらず、人生においては無駄だ。視界に入るものをメジャー・マイナーと勝手にラベリングせず、楽しいだろうと思ったものをどんどん摂取し、人生の糧にする。そのほうが充実した人生を送れるだろうことは、僕も理解している。
けども、僕は人生を約30年生きて、未だにマイオナを止めることができていない。
このnoteでは、僕の人生を振り返って現在のマイオナ性向を形成する原因になったであろう出来事をピックアップしていく。
なぜ僕のようなマイオナニストが生まれるのか興味を持った方は、どうか、このインターネット老人の思い出話に付き合ってほしい。
①:防衛機制が早い段階で形成されてしまった
僕の両親は、様々な方面の知識を持ち、わからないことがあれば積極的に調べる好奇心のある、いわゆる「教養人」であった。
両親は教養を重んじつつも僕にそれを押し付けることはせず、アニメ・ゲーム・漫画に触れることを制限しなかったし、むしろ共にそうしたコンテンツを楽しむこともあった。若き父と、あーでもないこーでもないと駄弁りながら『クラッシュ・バンディクー』の攻略をしたり、『ビーストウォーズ』を見てゲラゲラ笑っていたことは、いまだに覚えている。
この両親との生活が、僕が後にオタクに進む基礎を作ったことは疑いようがない。
だが、様々なコンテンツに寛容だった両親の方針にも例外があった。それが音楽だ。両親は僕に「アニソン」をほとんど聞かせてはくれず、家庭におけるBGMを選択する権利は常に両親、というか音楽好きの父にあった。
父は洋楽が好きで暇さえあれば洋楽を聞いており、さらに、当時の両親は96年にデビューし現在も活動している日本の音楽グループ「キリンジ(現:KIRINJI)」にハマっていて、リビングには常にキリンジか洋楽のどちらかが流れていた。当時の僕は音楽を持ち歩く手段を持っておらず、両親の選んだ音楽を聞かざるをえない状況にあった。
だが、僕はアニソンが聞けないことに不満を持ちつつも、そんな両親の趣味に影響され、自分から進んで洋楽やキリンジを聞くようになった。
これが悲劇を生む。
子供の頃の記憶は大部分が薄れたが、忘れようにも忘れられない嫌な思い出がある。
当時僕が通っていた小学校には、週に一度「給食の時間に、生徒がリクエストした音楽を流してもらえる」というイベントがあった。僕はそこに、洋楽のリクエストを持ち込んだのである。どんな洋楽かは忘れたが、確かジャミロクワイかスティービー・ワンダーだったかと思う。
私と同世代で、小学校に似たようなイベントがあった方(ネットでも似たような話をよく聞くし、これに類似したイベントがあった小学校は多いはずである)なら、どんな悲劇が起こったか察せるだろう。当時の僕は「良いものであれば、きっと趣味の壁を超えて理解される」と愚かにも信じていたが、洋楽が流れた瞬間、教室は気まずい、水を打ったような沈黙が満ちた。そして音楽が終わると、誰かが僕を煽った。
「おい◯◯!なんだよ今の曲はよwww」
瞬間、僕の心を強烈な恥じらいが支配し、全身が恥じらいで熱くなった。あまりにもいたたまれなかった。
その時、僕はその恥から心を守るために、「僕は悪くない。悪いのは僕の趣味を理解しない世界の、奴らの方だ」と、自分に強く言い聞かせた。いわゆる「防衛機制」が僕の心に生まれたのだ。
この時萌芽した、自分の心を守るための、自分を理解しない人間への「僕はお前らみたいなバカとは違うんだ」という差別意識が後の僕のマイオナ性向の原点だろうと、僕は考えている。
ちなみに、両親的にもこの出来事は印象深かったらしく、後に「(好きな音楽を聞かせないで)ホントごめん。悪かった」と謝罪しており、この出来事は笑い話として家族間で語れる程度の存在となっている。
似たような出来事は中学校でも続いた。
僕は中学校での読書時間のために、両親が勧めてくれた『十二国記』の『風の海 迷宮の岸』の上巻を持ち込んでいたのだが、当時刊行されていた講談社X文庫版の『風の海 迷宮の岸』上巻の表紙には、そのエピソードの主人公である泰麒の仲間である女性、白汕子の裸体が描かれていた(といっても、担当イラストレーターの山田章博氏の画風的に全くセクシャルではなかったのだが)。
クラスメイトはそれを目ざとく見つけると、僕から本を取り上げ「せんせ~!!◯◯くんがエロ本読んでまーすwww」と煽ってきた。
今だったら「ハァ~ン!!?お前らの頭は下江コハルかぁ!?」と笑い飛ばせるのだが、当時の僕には、尊敬する母が勧めてくれた素晴らしい一冊が侮辱されることがとても耐え難く、この出来事も「僕はお前らみたいなバカとは違う」という防衛機制を強化してしまった。
かつて『魔法少女マジカルデストロイヤーズ』の感想記事を書いた時にちょっと触れたのだが、僕は自分の世代の、差別・いじめを受けたオタクたちの一部が心に形成した「僕の趣味は、お前らの低俗な趣味とは違う高尚なものであり、間違ってるのは世界の方」という防衛機制のことを勝手に「オタク優生思想」と呼んでいる。
②:深夜アニメの味を知ってしまった
そうした「オタク優生思想」に染まりつつある僕を更に歪ませてしまったのが、深夜アニメとの出会いである。
きっかけは忘れてしまったのだが、ある日父が「◯◯はアニメが好きなのか。ではイイコトを教えてやろう。実は深夜にもアニメが放映されているんじゃ」「有料チャンネルのWOWOWにはタダで見れる時間帯があって、そこではアニメをやっているんじゃよ」と、深夜アニメとWOWOWノンスクランブルの存在を教えてくれた。
残念ながらその時父の教えてくれたアニメの内容の殆どは忘れてしまったものの、
サンライズ制作のロボットアニメ『アルジェントソーマ』や、成人向けイラストレーターの黒田和也がキャラデザを担当しそのエロさで一躍人気を集めた『ヴァンドレッド』、あまりに個性的(※穏当な表現)なオープニングが令和の今なおカルトな人気を誇る『銀装騎攻オーディアン』、原作レイプではあったものの僕を素晴らしい原作に出会わせてくれた『破壊魔定光』、ほか『ニアアンダーセブン』『HANDMAIDメイ』など、今なお記憶に残っているアニメは多い。
当時僕は、所謂「性の目覚め」を迎えてはいなかったものの、妖艶&爆乳な女性キャラが乱舞する『ヴァンドレッド』を見ている時は「僕は、本来見てはいけないものを見ている」という背徳感があった。もし僕の性の目覚めがあと数ヶ月早かったら、僕の性癖はヴァンドレッドの爆乳ヒロインたちと『おねがい☆ティーチャー』のみずほ先生にズタズタにされていただろう。
この深夜アニメ・WOWOWノンスクランブルとの出会いは、僕の中に「お前ら一般人は知らない素晴らしいコンテンツを、僕は知っているんだ」という優越感を芽生えさせ、オタク優生思想をさらに強化した。
③:「流行りの作品と合わない」という経験をしてしまった
その後高校に進学した僕は、本格的にオタクの道を歩み始めた。ネットで見たような沢山の知識・教養を持ったオタクに僕は憧れ、一般人からオタクに脱皮すべく、がむしゃらに様々なアニメを録画し、手当たり次第にラノベを読んだ。
記憶に残っているその頃の流行といえば、
といった作品群とその二次創作であり、当然、僕はそれらにも触れた。
…のだが、僕はその当時流行の作品群の殆どを、全く好きになれなかった。
当時の流行作全てに対する感情を書くと冗長になるし、ファンの方はいい気分ではないだろうから、ここでは『東方Project』に対する当時の感情を述べて一例とする。
当時、東方Projectは「弾幕STGとして面白い!」「キャラクター同士の関係性や裏設定の考察が面白い!」「ZUN氏の手掛ける音楽が素晴らしい!」と言われていた。僕は高校生であった当時、自分用のPCを持っていなかった上に、家族共用のPCは父の仕事の都合でマッキントッシュであったために東方をプレイすることができず、必然的にプレイ動画などを通じて東方のストーリーと音楽を履修したのだが、当時の僕のアンテナには全く東方は反応しなかった。
二次創作で百合の花を咲かせていた幻想少女たちは、ただ皮肉を飛ばし合っているようにしか見えず、当時の未熟な僕の心には「えっ?こいつら言葉で殴り合ってるばっかりじゃん。どうしてここからLOVEが生まれるの?」という疑問が生まれるばかりだった。
中でもショックを受けたのが、東方ファンが絶賛していたZUN氏の手掛ける音楽である。僕はそれらの素晴らしさが全くわからず、「ハァ~ン!!?『東方は音楽がすごい』だって!?!?東方オタクってこんなもん有難がってんの!?菅野よう子とか小林啓樹とか服部隆之とか田中公平とか河本圭代のほうが5000倍すごいじゃん!!!」という、東方ファン激怒不可避な、超スーパースゴイ・シツレイで、もしタイムマシンがあるなら当時の自分をぶん殴ってやりたいと思えるひどい感想を抱いていた。
これも過去のnoteで述べたが、当時のネット上における評論・批評にはまだ「作品のファンを尊重して、自分がひどいと思った作品でも安易に口汚くコキ下ろすのはやめよう」「自分に合わないと思った作品からは、すぐ距離を取って自分の心を守ろう」なんて令和的な優しさ・マナーはなく、「not for me」という素晴らしい概念も存在せず、「クソと感じた作品は徹底的に叩いてコキ下ろせ!晒し者にしろ!!それが真の『評論』『批評』だ!!」という世相があった。
当時の愚かな僕もその世相にかぶれ、「僕に合っている→素晴らしい作品!」「僕に合わない→つまらない作品!」という極端な評価基準しか持たず、感性に合わなかった作品をひたすら汚い言葉でぶっ叩いていた。
繰り返しになるが、もしタイムマシンがあるなら当時の自分を蹴飛ばしてやりたい。
この「流行りが肌に合わなかった」という経験は、僕のマイオナ性向を強固に心に根付かせた。そして最悪なことに、僕の心のなかで「オタク優生思想」とマイオナ性向は最悪の合体を果たし、僕の中に
「僕は流行りに安易に迎合したり、萌えやエロに簡単に釣られたりするオタクとは違う。僕は世相に惑わされず、砂漠から砂金を探し出すように、己の嗅覚をもって『真の名作』を探求するまことのオタクなのだ」
というゴミみたいな信念を誕生させた。
石動雷十太かお前は!!
ちなみに「真のオタク(笑)」になった僕だが、そう言いつつ当時一番楽しんでいたのは『コードギアス』と『攻殻機動隊SAC』であり、
といった感じで思いっきり世間の流行を楽しんでいた。マイオナってなんだよ。
④:同好の士を得てしまった
マイオナ性向を決定的にしたのは上記した通り「流行が受け付けなかったという経験をしたこと」なのだが、それにとどめを刺したのが、高校時代に似たような考えを持つオタクフレンドの真田くん(仮名)と出会ってしまったことである。
真田くんは安易な萌えやエロを嫌っており、当時の僕と似たような思想の持ち主だった。僕らは遊戯王OCGという共通の趣味を持っていたこともあって瞬く間に意気投合。最悪のエコーチェンバーが誕生してしまった。
僕と真田くんは日夜「真のオタク(笑)トーク」を繰り広げては盛り上がり、互いにマイオナ性向を強化していった。
ちなみに、そんな真田くんも当時一番推していたのは『とあるシリーズ』と、当時放送中だった『機動戦士ガンダム00』であった。マイオナってなんだよ。
◆回る回るよ 時代は回る
僕はそうして「真のオタク(笑)」を気取りながら、紆余曲折あって社会人となったが、その頃、ネット上における「評論」「感想」の傾向が変わった。上記した「鋭い批判こそが真の批評」とでも言うべき風潮が変わり、ソリッドな否定ではなく理解と寛容に基づく、作品をアゲる感想・批評が主流となったのだ。同時に先述した「not for me」という概念も広まっていった。
僕には、そうした新時代の批評・感想がとてもかっこいいものに見えて、いつしか「僕もこうありたい」と思い始めた。
同時に、そうした批評・感想をネット上に公開する批評家を多数フォローし、彼ら/彼女らの評論を聞く中で、僕は流行作にも流行るだけの理由があると知った。
そのうちに、僕は勝手に作品をメジャーだとかマイナーだとかラベリングし、「真のオタク(笑)」を気取る自分を「なんと視野の狭いことだろう!」と恥ずかしく思うようになっていき、「『真のオタク(笑)』を、マイオナを止めて、メジャーだとかマイナーだとか先入観を捨てて、色んな作品を楽しみたい」と決意し、現在に至っている。
自分のオタク元年を高校デビュー(2007年)とすると、この境地にたどり着くまで約10年以上かかったらしい。「たった10年で下らないこだわりを捨てられて良かった」と見るべきか、「10年も下らないこだわりに囚われて作品を素直に楽しむ機会を損失した」と見るべきか…。
◆まとめ
これが、マイオナニストという珍獣が生まれるまでのプロセスである。マイオナニストの全員が全員このプロセスを辿ったわけではないだろうが、僕と似たような経緯でマイオナニストになったオタクは大勢…とは言わずとも、それなりにいると思う。
こうして無事マイオナを脱却することができた僕だが、10年も心にこびりついていたマイオナ性向は、3X歳となった今でも完全に捨て去ることはできていない。
主流から大なり小なり外れた作品をチェックし、見終わる・遊び終える度に「フフフ…俺はお前らの知らない面白さを知っているんだぜ…」とほくそ笑む高校生の頃の自分が、未だに心のなかに存在することを、否定することはできない。
アニメ・ゲームなどの作品をチェックするときも、いわゆる「きららアニメ」「きらら系」と総称される作品群によくある「美少女大集合でキラキラな雰囲気!」なキービジュアルには苦手意識があって遠ざけてしまうし、放送前・発売前から力の入っていることが丸わかりな作品、例えば既に有名な原作をアニメ化した作品は「これだけ人気ならいろんなサブスクで配信されるだろうし、あとでいいか」とウィッシュリストに放り込んで忘れてしまいがちだ。
『物語シリーズ』。『ガールズバンドクライ』。『ぼっち・ざ・ろっく!』。『推しの子』。『ソードアート・オンライン』。『鬼滅の刃』。『呪術廻戦』。『ダンジョン飯』。『東京リベンジャーズ』。令和版『ダイの大冒険』。『SHIROBAKO』。『僕のヒーローアカデミア』。『ペルソナシリーズ』。etc…
アニメだけに限定しても、僕はこれら例示したような流行作を、見ようと思いつつウィッシュリストに放り込んでほったらかしにしている。
2024年夏季のアニメもいろいろ録画したが、通しで見られたのは『ばいばい、アース』『この世界は不完全すぎる』の2本だけだ。
令和6年にもなってもういないとは思うが、もしもこのnoteを読んでいて、かつての僕のように目に入ったコンテンツをメジャー・マイナーと勝手にラベリングして、ありもしない二項対立を心の中に作っている人がいるなら、今すぐ止めたほうがいい。それは冒頭でも述べたとおり決して人生を豊かにはしない。むしろ名作を楽しむ機会を損失させ、人生を貧しいものにする。
それに、マイナーばかり追っていると、駄作に遭遇する確率も上がる。
素晴らしい名作を楽しめたであろう時間を、『魔法少女マジカルデストロイヤーズ』だとか『ジビエート』だとか『重神機パンドーラ』だとか『ウィザード・バリスターズ~弁魔士セシル』だとか『あかねさす少女』だとか『されど罪人は竜と踊る』(※アニメの方ね)だとか駄作・迷作に費やすことになってしまうのだ。
僕のようなひねくれ者の文章好きのオタクになると、駄作・迷作に出会っても「おっ!これはいいオタクフレンドとの雑談のネタになるな!それに、これでnoteが一本書けそうだぞ~!」とむしろ喜んでしまうのだが、そんな風に感じるのは少数派だろう。真っ当な人は駄作など見たくはあるまい。
稀に『けものフレンズ』とか『シキザクラ』など、砂漠の中から砂金が出てくるケースもあるものの、それはレア中のレアケースだ。そうあるものではない。
マイオナかまして大後悔した僕が、未来のマイオナニストに贈る言葉は、この1つしかない。
俺たちのようには! なるなぁぁぁぁぁぁっ!!