かつて人間が好きでした。

社会人、数年目の私です。
職場を最近変えまして、まぁバリバリ仕事が出来るタイプではないのでモソモソ叱られたり精神状態がやべー奴にキャンキャン怒られたりしながら新しい仕事場で日々過ごしているんですけども。
一定期間が経つと「新しくコミュニティに入った人間の品定め」って始まるじゃないですか。
精神状態がやべー奴がいつこっちに走ってくるかわからない地雷原みたいなやつすぎて怖いもんだから挙動がびくびくビックルしすぎまして。
そのせいで「やだぁこの子面白いんだけどー!」と精神状態がやべ―奴に言われてしまってイラッとしたりしています。まぁ構え過ぎな自分にも問題がないことはないけどもだなーお前に言われたくねーよ?とか思ったりしています。

人を「笑わせる」ことが出来るセンスがあるねと言われりゃ褒め言葉ですが、この場合は存在が「笑える」ねと言われてるのではっ倒すぞという気持ちです。ピエロに憧れてる人もいるでしょうから一概には言えないとして、「貴方の所作は生まれついてのピエロね!」と言われて喜ぶ人が大半だとでも思って言ってんのかと問いたい。


新しい環境で新しい人間関係に入り込んでみて、ふと気付いたのです。
あぁ、変と呼ばれたのはこの歳になって久しいのだと。

変な奴だと言われていじめられて育った小学生、変な子だと言われていじめからかばわれもせず育った中学生、逃げるためだけに勉強して滑り込んだ進学校では誰かに何かを言われない代わりにトラウマが付きまとって息苦しかった高校生、その自分が将来の職のため選んで入った専門学校で、再び担任に変だもんな呼ばわりされて何とか社会に出た後ウン年。

自分が普通じゃないだなんて当然だ、と思っています。
だって私、義務教育の9年間ずっといじめられっ子で生きていたんです。
みんなが持ってる普通の人生が、普通の青春が、「普通を裏付ける土台」がなくてどうして普通になれるんでしょう。
「普通そんな風に考える?」って幾度、聞かれたことでしょう。
そう問いかけてくる人たちが普通と定義した人間たちは加害者そのものやその側に立つ人たちばかりで、幼心にも「こんなに人を傷つけることに慣れた者が普通でいいのかこの世の中は」と思っていました。

そうやってそもそも加害する側だったり見て見ぬふりして逃げたりで、いじめられたり排除されることなく大人になって過ごしてる、そんな自分を普通だと思ってる人たちが定義した言葉でコミュニティーなんだから私が入るわけないでしょーがと。
自分が思ってることが正しいのか、最新の定義に合っているのか、それを疑いもせず更新するべき概念も持ち合わせずに歩き続ける危うい人たちが普通ならば私は一生、普通なんかじゃなくていいと思った。

何食って育ったらそんな大人になるんだと聞いてくる人間には、そもそも親に飯出してもらえる子供を経て生き残る大人ばかりではないんだと言いたい。

さて、そんな経緯を得て生きてる私が「人間が嫌いです。」って言うとリアルでは引かれるんですが。
しかし「嫌い」になるには、元が好きでなくては、嫌いになれないのではないかと思うのです。
多分かつて無条件に、生まれつきには、人を好きな人間であったのだと思います、私は。
好きの反対は無関心であるとききます。ならば。
好きだった、だからこそ今は嫌いになったのです。

仕事柄、関わった人がいなくなることがよくあります。
私の前からいなくなる時もあるし、二度と会わない場所へ行かれることもあります。
いなくなっている事実に寂しさは覚えます。
しかし「寂しいだけ」にとどめます。悲しいのとは違う。本当に悲しいのは、ちゃんとその人を知っている人たちなのですから。
私の感傷は、ただの寂しさであっていつか忘れるものです。
まぁつまり悲しむ権利は私に無いのです。
印象的な人は時々思い出しますが、いつか思い出さなくなるでしょう。

…と言ってずっと、初めて私が仕事で接していて亡くなった人のことは覚えている。神経が過敏になっていて、ただ肌に触れただけで泣きわめかれて、全然仕事にならなかったのを思い出す。
嫌いとは無関心ではないんだと、この仕事に就いてから実感しました。
「忘れるいつか」っていつでしょうね。それが来るのを、ずっと待っています。

もちろん、私を普通じゃなくした忌々しい思い出を忘れる日のことも待っています。

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