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短編小説:急須

誰もいない職場を見渡して、また今日も帰れないなと再びパソコンに向かう。まあ、元々帰れるとは思っていなかったけれど。

 仕事が立て込んだときは、職場は戦争状態となる。男と女という性別などどこへやら。明け方になると、そこら中に屍のように人が横たわる。

 けれど私はこんな状況が嫌いではない。好んで好きというわけでもないけれど、みんなで共通の目的に向かって身をすり減らすことで、生まれるものがある。

仕事の最中は絶望的なまでに廃人状態になるけれど、出来上がったものをみんなで共有するのは好きだ。それもこんな状況を共に乗り越えた経験があるから余計にそう思うのだ。朝方にすえた臭いのするこの職場は、実は気に入っている。

 先日研修を終えたばかりの斎藤君が血走った目でチェックを求めてくる。働き方改革を当然だと認識しているこの世代には、今の状態は耐え難いものなのだろう。帰っていいよとは誰も言わないので、私も言わない。私は笑顔で原稿を受け取りチェックを行う。一目見ただけで、ほとんどミスだらけだとわかる。一体この時間まで何をやっていたのだと思う。あとはこっちでやっておくねと優しく伝える。斎藤君はもう帰ってもいいよと言われるのを待っている目で私を見つめる。私もそれをわかった上で、再び原稿に目を落とし修正にかかる。目の端で斎藤君が落胆する表情が見える。日に日に斎藤君が老化していくのがわかる。難しい方の齋藤です、と入社の日に声だかに言っていた。おそらく持ちネタなのだろう。私は心の中ではいつも「斎藤」と簡単な時の方で変換している。

 チェックを終えて、優しい笑みだけを斎藤君に向けて私は給湯室へ向かう。斎藤君はもう諦めたように、パソコンを触っている。やることがないなら帰ればいいのだ。けれど彼は自分から帰りますと言えない。私はそれも全部わかっている。けれど言わない。

 給湯室には、コーヒーメーカーと、各自のマグカップや湯呑み、そして誰が置いていったかわからない急須が置いてある。ほとんど人はコーヒーか紅茶しか飲まない。急須が使われているところは見たことがないが、だからこそ私はいつも急須でお茶を飲むようにしている。いつしか急須は私専用のものとなった。

 ポットの湯が切れていたので、水を足し、しばし湯が沸くのを待つ。時計は深夜の二時を過ぎたところだ。一人、また一人と、床に転び始める。斎藤君は恐る恐る床に触れ、寝れそうかどうかを確かめている。さっさと帰れよ、グズ。そう考えているうちに湯が沸く音が聞こえる。

 私しか飲まない緑茶パックからパックを二つ取り出す。会社にいる間のほんの些細な贅沢だ。私は必ず二パック入れて緑茶を飲む。家では一つのパックで数日持たせるが、会社は特別だ。

 段々と職場の喧騒が小さくなっていく。また一人二人と夢の世界に旅立っていく。私も一杯飲んだら横になろう。お湯を急須に注ぎ、緑茶パックを数回揺らす。蓋を閉め、湯呑みにお茶を注ぐ。

 急須の口から出てきたのは、先日別れたばかりの元カレだった。

 元カレは私を見るなり、何かを捲し立てるように口を動かした。けれど急須に入れるくらい小さくなった元カレは声帯までも身体のサイズに合わせて小さくなったようで、キイキイとしか聞こえない。しかし顔の造作は紛れもなく元カレである。よく見ると最後にあったときより髪が短くなっている。失恋して美容室に行ったのか。想像するだけでげんなりする。

 元カレは私と結婚する気でいたらしい。私にはその気は全く無かったし、仕事も辞めるつもりもなかった。けれどまるで当たり前のように私が仕事を辞め家庭に入る話をしてきたので、ああ、もういいやと思ってその場で別れ話を切り出した。元カレは、そのときもキイキイと喚いたけれど、私に対して浴びせられるだけの罵詈雑言をぶつけていることはよくわかった。

 急須から出てきた元カレも、そのときと同じ表情をしている。声は聞き取れないけれど、何を言っているかは大体わかる。これだけ小さくなっても、この人は変わらないことに、私はどこか感銘を受け、そして呆れた。

 それでも元カレは急須から首から上を出して必死に私に捲し立てるので、私は急須の口に耳を近づけた。元カレはときおり、私の耳を褒めた。私の耳の形はとてもいい形をしているらしい。自分ではよく見えないので、なんとも言えないが、とりあえずセックスのときはよく舐めてきた。

 しかし徹夜続きの私の耳からは、おそらく近づくからこそわかる汚臭がしていたのだろう。耳掃除もしばらくしていなかったので、耳カスも相当溜まっているはずだ。小さくなった元カレから見たらそれは、絶望的なものなのだろう。そんなものを舐め回していたのだから。

 キイキイうるさかった元カレは、私が耳を近づけた途端急に無気力になり、何も言わなくなった。ちょっとかわいそうな気もしたけれど、こういう勝手なところが嫌になったのだ。

 私は途端に面倒くさくなって、急須からお茶を湯呑みに注ぎ込んだ。

 小さくなった元カレは、湯呑みの中で、バクバクと口を動かし、溺れそうになっていた。私は湯呑みの緑茶を元カレと一緒にぐいっと飲み干した。しばし時間が経っていたので、一気に飲んでもやけどするほどではなかった。

 もう一杯湯呑みに注ぎ、口をゆすいでから、席に戻った。丸呑みされた元カレは、私の腹の中で暴れ回っているのがわかった。それは少し気持ち悪かったけれど、数日に渡る胃酸過多で、やがて大人しくなるだろう。

 斎藤君は床に寝転んで、もう寝息を立てていた。そうやってこの職場にも慣れて、こんな日々が当たり前になっていくのだよ。頑張れ齋藤、と私は難しい方の齋藤で心の中で呼びかけた。

(「急須」)

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