『論理哲学論考』と『桐島、部活やめるってよ』の類似性について
『桐島、部活やめるってよ』という映画作品がある。
大まかなあらすじはこうだ。
公開当時は「〇〇、〇〇やめるってよ」の構文がミームとして流行ったので、まだ楽しかったころのTwitterをやっていた人たちはタイトルを耳にしたことくらいあるだろう。
この作品の面白いところは、タイトルであり物語の起爆剤である「桐島」が一瞬たりとも登場しないところにある。
「桐島」の存在は、他の生徒の言動からのみ描かれる。彼らの言葉や、パワーバランスの崩れた学校生活を見る限り「桐島」という人物の重要性がひしひしと伝わってくる。他者を通して描かれる「桐島」は、神格化された形で視聴者に伝わることになる。
これは、僕が思うに意図した演出じゃないかと思う。「桐島」以外のすべてを描くことで「桐島」の真の姿を浮き彫りにしようとしたのではないだろうか。
ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(以下『論考』)も同様の方法を試みている。
『論考』の目的は
①「有意味に語りうること」と「有意味には語りえないこと」との間に境界線を引くこと。
②哲学で扱われている問題のほとんどが後者の領域に属することを 証明すること。
の二点になる。
細かいことを書くと話が無限に長くなるので端折るが、ヴィトゲンシュタインは『論考』の最後にてこう結論付ける。
ヴィトゲンシュタインは①の目的も②の目的も達成する。
そして哲学の正しい方法とは「言うことのできること以外、なにひとつ言わないこと」として結論付ける。
ヴィトゲンシュタインは神格化された「哲学」という「有意味には語りえないこと」を表現するためには「有意味に語りうること」をただ続けることで、その輪郭を浮き彫りにするしかないと言っているように感じる。それはまさに「桐島」の神格化された真の姿を表現するために、一切桐島を登場させなかった「桐島、部活やめるってよ」の構造と似ている。
そして、ヴィトゲンシュタインは『論考』を最後にこう締めくくる。
余談ではあるが、ヴィトゲンシュタインはこの『論考』を最後に哲学の道を離れ、教師への道を進む。
この『論考』という書籍はいうなれば「ヴィトゲンシュタイン、哲学やめるってよ」なのである。