『論理哲学論考』と『桐島、部活やめるってよ』の類似性について


『桐島、部活やめるってよ』という映画作品がある。
大まかなあらすじはこうだ。

田舎の高校で、バレー部の桐島が部活をやめるというニュースが駆けめぐる。キャプテンの桐島は成績も優秀で、皆が認める校内のスターだった。退部の理由は桐島の彼女にもわからず、それによって生徒たちの複雑な人間関係が少しずつ動き出す。

google検索したら出てきた

公開当時は「〇〇、〇〇やめるってよ」の構文がミームとして流行ったので、まだ楽しかったころのTwitterをやっていた人たちはタイトルを耳にしたことくらいあるだろう。
この作品の面白いところは、タイトルであり物語の起爆剤である「桐島」が一瞬たりとも登場しないところにある。
「桐島」の存在は、他の生徒の言動からのみ描かれる。彼らの言葉や、パワーバランスの崩れた学校生活を見る限り「桐島」という人物の重要性がひしひしと伝わってくる。他者を通して描かれる「桐島」は、神格化された形で視聴者に伝わることになる。
これは、僕が思うに意図した演出じゃないかと思う。「桐島」以外のすべてを描くことで「桐島」の真の姿を浮き彫りにしようとしたのではないだろうか。

ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(以下『論考』)も同様の方法を試みている。
『論考』の目的は
①「有意味に語りうること」と「有意味には語りえないこと」との間に境界線を引くこと。
②哲学で扱われている問題のほとんどが後者の領域に属することを 証明すること。
の二点になる。
細かいことを書くと話が無限に長くなるので端折るが、ヴィトゲンシュタインは『論考』の最後にてこう結論付ける。

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哲学の正しい方法があるとすれば、実際それは、言うことのできること以外、なにひとつ言わないことではないか。
(中略)
――その人は、哲学を教えてもらった気がしないかもしれない。――けれども、これこそが、ただひとつ厳密に正しい方法ではないだろうか。

ヴィトゲンシュタイン.論理哲学論考(光文社古典新訳文庫)(Kindleの位置No.3337-3342).光文社.Kindle版.

ヴィトゲンシュタインは①の目的も②の目的も達成する。
そして哲学の正しい方法とは「言うことのできること以外、なにひとつ言わないこと」として結論付ける。
ヴィトゲンシュタインは神格化された「哲学」という「有意味には語りえないこと」を表現するためには「有意味に語りうること」をただ続けることで、その輪郭を浮き彫りにするしかないと言っているように感じる。それはまさに「桐島」の神格化された真の姿を表現するために、一切桐島を登場させなかった「桐島、部活やめるってよ」の構造と似ている。
そして、ヴィトゲンシュタインは『論考』を最後にこう締めくくる。

7
語ることができないことについては、沈黙するしかない。

ヴィトゲンシュタイン.論理哲学論考(光文社古典新訳文庫)(Kindleの位置No.3349).光文社.Kindle版.

余談ではあるが、ヴィトゲンシュタインはこの『論考』を最後に哲学の道を離れ、教師への道を進む。
この『論考』という書籍はいうなれば「ヴィトゲンシュタイン、哲学やめるってよ」なのである。

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