小説 やわらかい生き物 3
違いは個性か?
[1]
他人が目に止めないことがある。
それは、見えているが、重要でないもの、興味のないもの、気づくことすら出来ない小さいもの。
しかし、目に留まる人には、理由もなく目に入るものだったりする。
小さな小さな花だったり、色だったり、文字や形、意味を持たないものだとしても、視界にはくっきりと映り、記憶に蓄積される。
後にそれが、発見だったりして初めて注目、評価になるのだけれど、大概はそれは、そういうものは、物も、人も、その他に埋れ、朽ちるものも多い。
ただ、進化において、それは変異であり、適応や順応によっては優位に変わる。
別つ、判るのは後々。
[2]
悪意が無いつもりの発言は多い。親切心とも言えるし、口にした何気無いほんの軽口が、相手にとって傷を抉るかなんて想像もつかない、そんなことは日常茶飯事なのだ。
しかし、人の人生、いつ、何が起きたかはわからない。
少なくとも、言われた事が些細だろうと、気に障ったのなら、不快になる。
言われたことを我慢して居ることが美徳か?
気付いたなら、謝ればその後、少なくとも似たような揉め事はないのではないか。
…そう、上手くはいかない。
そうして、発言が軽口だと、ちょっとした冗談だと思って居る人間は、案外幸せを感じて生きて来れたのでは無いか?と少なからず妬ましく思ってしまう。
身近な人間が味方にならない例なんか、いくらでもあるだろう?
家庭が安らぐばかりの場所ではないことは、身に覚えのある人も多いはずだ。
当たり前と思う関係に、全員が当てはまるわけ無いんだ。
[3]
いわゆる世間話や、雑談、というのは、どこまで公開するかを、無意識で線引きしているのだろうか?
今までどんな生活をしてきたのか。
どういう経緯でここまで来たのか。
自分が、其れ程興味を持たれてないのはわかる。おそらく、会話の取っ掛かり。本日の天気にも似た…似てない。天気のようには話せない。
ここで引っ掛かる。
自分が相手に対して同じ質問が出来れば、違うかもしれない。
自分の話題が、今、この場所だけに封じられるなら、話せるかもしれない。
それ以上に拡がることを思い出すと、言えない。覚悟、と言うか。
知って欲しい、と、思った事と違うことに後々なっていると、訂正もできないのだ。
言われた事を気にしない人間など、居るだろうか。いや、居ないはずだ。それは大なり小なりあるものと前提として自分は言葉を使う。
言った側が発言を間違えた?と気付ければ、まだ「わだかまり回避」の可能性がある。
何が違うのかよくわからない。
少なくとも、同じ言語で同じ姿をしているのにこの自分の違和感。
違うことが怖いわけではない。
それは違う、と、否定されて萎縮したわけでもない。
なんとなく、言わない方がいい相手と、言ってもいい相手が居るのだな、と判断してみた。
結果、あまり、言葉を言わなくなった。
言うべきことを言わないと、理解されない、誤解される、批判される、押し付けられる。
弊害はあるのだが、言葉数を増やしても、伝わらないものは諦めてしまう。
理由は、それなりにあるのだが。
個性的と言われたり、変わり者と言われたり。
良い評価なのか、悪いレッテルなのか。
いまだに、対人は二分化する。
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