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「ハウス・オブ・グッチ」実力派俳優で固められたリドリー・スコットの新作なのにシラけてしまった理由。
どうも、安部スナヲです。
GUCCIもBVLGARIもドルチェ&ガッパーナも無縁の私ですが、別に求めてないのでかまわないと思ってます。
そんな私でも、GUCCIの代表者がモトヨメに殺されたらしい事件はなんとなく知っています。
それにしても夫婦喧嘩の過激版くらいの認識で特に関心のある事件ではないのですが、その顛末を、あのリドリー·スコットが映画化したというならハナシは別です。
【パトリツィアの“叩き上げ感”】
私は音楽家としてのレディ·ガガに関心がないので、名前は知っているけど、どんな顔なのかはボンヤリとしか思い浮かべることができません。
なのでもし、事前情報を一切入れずにこの映画を観ていたら、最後まであのレディ·ガガが主演であることに気づくことはなく、普通に「めっちゃうまい女優さんやなぁ」と思っていたでしょう。
それくらい、この映画でパトリツィア·レッジャーニを演じる彼女はお見事でした。
パトリツィアという人は、元々父親が経営する運送会社で経理の仕事をしていましたが、グッチ創業者の孫であるマウリッツィオ(アダム·ドライバー)と出会って恋仲となり、やがて結婚。スッたモンだを経てグッチの経営権を奪いました。
言わば叩き上げの中の叩き上げ「叩き上げの女王」と呼ぶに相応しい女性です。
その点においてこの映画での彼女は、例えば獣じみた目つきや、隙あらば人に取り入ろうする振る舞いや、いちいち谷間を強調する服装など…ちょっと気が強いだけの普通の女性に宿った野心が段々と肥大して行く様子をよく表していますし、何より彼女の容貌は、どんなに金持ちになろうと上品になり切れず、出自が知れてしまうような泥臭ささを残しています。
そのように終始一貫して「叩き上げ感」を印象づけるところが、最もパトリツィアたらしめてるなと感じました。
【何がマウリッツィオの“Faith”なの?】
リドリー·スコットはこの映画の音楽について「ニードル·ドロップが必要だった」と語っています。
「ニードル·ドロップ」とは「レコードに針を落とす」という意味で、要するに映画用に書き下ろすオリジナル曲ではなく、既にレコードになっている既存の楽曲を使用することを差します。
映画音楽として、さして珍しいやり方ではありませんが、この映画では、それぞれ場面場面の文脈と曲の意味をリンクさせている箇所が多く、エドガー·ライトやタランティーノなら定石ですが、リドリー·スコットにしては珍しいかも知れません。
その音楽の使い方で、とても笑えて、尚且つマウリッツィオという人物を象徴していると感じた場面があります。
恋仲となった2人ですが、マウリッツィオの父·ロドルフォ·グッチ(ジェレミー·アイアンズ)はこれに猛反対。
彼ら親子は衝突し、一度は絶縁状態となります。
グッチ家を離れたマウリッツィオはパトリツィアの父の運送会社で働くようになります。
シガラミから解き放たれ、相思相愛で有頂天の2人は勢い余って、その運送会社の事務所でプレイします。
この時、犬のようにアヘアヘ喘ぎながらユッサユッサギッシギッシとまぐわう2人のリズムに合わせて、ヴェルディの名作オペラ「椿姫」の「乾杯の歌」が流れます。
そしてそのまぐわい場面からのジャンプカットで、今度は教会のバージンロードが映し出され、バックにはパイプオルガンの調べが流れます。
シチュエーションは結婚式の場に移りました。
しかし、このパイプオルガンは、ジョージ·マイケルの「Faith」という曲のイントロなんです。
長くこの曲を愛聴して来た私は、これに気づいた時点で可笑しみMAXでした。
というのもこの曲の歌詞、早いハナシがエロい女性からの誘惑にムラムラしながらも、安易に屈することなく“I gotta have faith(信念をもたねば)”みたいな内容なんですよ。
うーん、言い得て妙!
世界的ハイブランドのグッチ家に生まれはしたが、どこかボーっとしていて信念も主体性もないマウリッツィオが、性欲に流されるがままパトリツィアと結ばれ、やがて来る悲劇への幕開けとして、これほどアイロニーを利かせた選曲はないと感じ、私は劇場内で声を殺して爆笑してしまいました。
【おまえはバカだ、だがオレの息子だ】
この映画のヘッドライナーは誰が何と言おうとアル·パチーノです。
近作では、マーチン·スコセッシ監督「アイリッシュマン」(2019)のジミー·フォッファ役で、もうひれ伏すしかないカンロクを見せてくれましたが、本作でのアルド·グッチ役もなかなかのスゴ味でした。御年81歳。いやぁ、往年のスターはいくつになってもスターです。
意外にもリドリー·スコットの映画に出るのは初めてのようですが、とにかく2022年の今になって、こんなにギラギラと人間臭いパチーノを見られたことにこそしあわせを感じますし、そんな風に思う映画ファンは多いのではないでしょうか。
アルドはグッチの実質上の総裁。
一見、懐の深そうな人物ですが、その実一癖も二癖もある食わせ者です。
グッチを世界展開した一方、ブランドイメージを守るプライドとポリシーは希薄なところがあり、儲かるのであればレプリカ品も容認するような人です。
そしてその息子、パオロ·グッチ(ジャレッド·レト)
てか、誰?
ジャレッド·レトはリドリー·スコットの映画に出られるなら何でもします!という意気込みのもと、一度の特殊メイクに6時間もかかるこのパオロ役に挑んだそうです。
熱意は素晴らしいが、ここまで原型をとどめないメイクをするなら、別にジャレッド·レトじゃなくてもええんちゃうん?と思わなくもないですが…。
パオロは仕事熱心で、貪欲に新しいデザインを模索したりしますが、如何せん才能がありません。
叔父のロドルフォからは「その才能を決して人に見せるな。お前は凡庸を極めた」なんて嫌味を言われてしまうほど、デザインセンスもビジネスセンスも皆目ナッシング。
しかも厄介なのは自分が無能であることをわかっておらず、自分を認めない周囲を逆恨みします。
そもそもオツムが良くないので、強かなパトリツィアにまんまとハメられ、父、アルドの脱税をチンコロし、逮捕に追いやります。
挙句、さらなるパトリツィアの画策にハマり、グッチ株まで手放してしまいます。
ホンマのアホです。
劇中、アルドが出所してパオロと再会した時、自分を刑務所にブチ込むきっかけを作ったこの息子が、こともあろうか株まで手放したことを知り、「おまえはバカだ、だが、オレの息子だ」と言ってパオロを抱きしめる場面があります。
この時のパチーノの、何もかもに絶望しながらも、半分は親である自分の責任であるが故に、この愚かな息子を慈しむしかない…と言わんばかりの表情が切なくてたまりませんでした。
【何が“Ciao”じゃボケ!】
監督がリドリー·スコットで、これだけの実力派俳優が揃った時点で、この映画がつまらないワケはありません。
しかし、その割には残念な部分が多い映画でもあります。
まず、物語の大枠はとてもおもしろいのですが、グッチ家を落し入れて経営権を奪う、その調略手段が、脱税リークと株式買収のみというのは少々単調に感じました。このあたりは山崎豊子の小説くらいトリッキーな脚色があった方がエンタメ作品としては良かったのでは?と感じました。
そして「これはさすがにムリ!」ってくらい決定的にシラけたのは、これはイタリアのハナシで、主要人物は全員イタリア人の筈なのに、話してる言語が全編英語なんです。
これいかに!
しかも台詞のところどころ「Ciao!」を挟んでくるのが余計にムカついてしまいました。
台詞をイタリア語にするのが難しいのであれば、いっそグッチをモデルにした架空のブランド一族のハナシにするべきじゃないか?とも思いますが、それはそれで話題性が薄まってしまうのでしょう。
しかしながら映画を楽しむ側として、そういうコマーシャリズム的なことをちょっとでも考えてしまうと作品に対する熱が一気に冷めてしまいます。
グッチ一族の、それこそレプリカ品みたいなハナシでおもしろい映画を作ってくれてたらより感動的だったのにな…と、そんなわがままな映画好きでいたいと思います。
出典:
映画「ハウス・オブ・グッチ」公式劇場パンフレット