日本でわたしも考えた
冒険家の皆さん、今日もラクダに揺られて灼熱の砂漠を横断していますか?
さて今日はインド人のジャーナリストが配偶者の転勤により日本で4年間住むことになり、その経験を綴った「日本で私も考えた」という本について書いていきたいと思います。
日本でわたしも考えた:インド人ジャーナリストが体感した禅とトイレと温泉と Kindle版
パーラヴィ・アイヤール (著)
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【日本語教育】
第4章のタイトルが「越えられなかった日本語の壁」となっています。ここはインドと関係ある人もない人も日本語教師なら皆さん興味を持ってくれると思います。
著者はタミル系の名字を持っているのでおそらくタミル語とヒンディー語と英語は既に話せるものと思います。 そして日本に車での駐在の経験で中国語やインドネシア語もそれなりに使えるようです。 では日本語はどうだったのでしょうか。
「ただし、日本語のレッスンを始めることだけはした。中国語はかなりうまく話せるまでになったし、インドネシア語も自分の意思を伝えられる程度にはできた。日本語はどのくらい難しいのだろう? ──わたしはそう考えた。すぐに判明するのだが、「ものすごく」難しいというのが答えだった。礼儀正しさを表すこと以上に特別な意味がないにもかかわらず、やたらと長い表現が数え切れないほどあった。」
元々第4章のタイトルが「越えられなかった壁」なのですからこのようなことが書いてあるのはそれほど驚くことでもないのですが、おそらくインド人で日本語に興味を持っていてこれから日本語を勉強と勉強しようとしている人たちが読むかもしれないことを考えるとこれはとても残念です。
しかし、多くの日本語教師は気がつくように、これは日本語の問題ではなくたまたま著者が巡り合ってしまった日本語教師にも問題があるのではないかと思います。例えば以下のような記述をご覧いただきたいと思います。
「さらに、「よろしくお願いします」という言葉があることを知った。「これってどんな意味ですか?」と日本語の先生に尋ねてみた。「それはね、『thank you』ということです」と答えが返ってきた。普通だと、一カ月間日本語を習っても「thank you」の言い方を覚えるだけで終わってしまうということになりかねないのだ。」
日本語教師から見ると、この部分も明らかに間違っていますよね。 もちろん著者に日本語を教えた人がこのように実際に話したのかどうかはわかりませんが、少なくとも学習者であった著者がこのように理解してしまったということは事実です。
「よろしくお願いします」という表現が「あらかじめお礼を申し上げます」(Thank you in advance.)という意味で使われることがあるのも事実ですが、しかし感謝そのものとは違いますよね。
「これが日本語になると、思考停止状態に追い詰められたような気がした。動詞のさまざまな活用とその否定形を覚えることに頭の中のスペースをすべて割かなくてはならなかったのだ。」
ここから見ると明らかに文型シラバスではうまくいかないところで、文型シラバス的な教え方が採用されていたことがわかります。 著者はこの本の別の部分で一週間に一度しかレッスンを受けていない事と、それが一対一のプライベートレッスンであることも書いています。
そのような状況で動詞の活用などを体系的に教えることが果たして妥当だったのか僕には非常に疑問です。 そして実際に著者は日本語という壁を超えることができませんでした。
これは既に何ヶ国語も話せる才能のある著者に問題があったのでしょうか。それとも日本語に問題があったのでしょうか。どちらとも違うと僕は思っています。そしてジャーナリストという情報発信力のある人がこのような体験をしてしまい、それを英語で世界に向けて書かれたことは非常に残念です。著者はもちろん日本語教育の専門家ではありませんから、これは著者の責任ではありませんが。
「最終的にわたしが習得した成果は、タクシーに乗ったときに運転手に次の信号で右折するか左折するか指示を出せることくらいだった。その程度か、と思うかもしれない。しかし、わたしはそれを非常に丁寧な言い方で伝えることができるようになったのだ。」
著者は結局1年間毎週プライベートレッスンを受けていたのですが、その結果できるようになったことがこれだけというのは非常に残念なことです。日本語教師の皆さんにとっては、非常に優秀な学習者であるはずのこの著者がこの程度の成果しかあげられなかったのは、コースデザインや教え方に大きな問題があったのではないかと想像ができるのではないかと思います。
日本語教育に関してはこのぐらいにしておきますが、著者とは正反対でインド在住の日本人である僕としてはやはりインド人としての視点が非常に面白かったです。例えば花見に行った時の感想としてはこのような表現も出てきます。
「これがヒンディー語映画だったら、羽を広げたクジャクがいきなり姿を現し、花見客とリズムを合わせてダンスするシーンになっていたところだろう。」
【勉強になったこと】
また、この本は日本についても僕が知らなくて勉強になったこともいくつかありました。 その一つが女性の労働力率というものです。
「日本の女性は家庭にとどまり、職場では歓迎されないという見方自体も改める必要がある。実は、日本の女性の労働力率(生産年齢人口に占める就業者と求職者の割合) は、アメリカよりも高いという結果が出ている。二〇一六年の女性の労働力率は日本が七六・三パーセントで、アメリカの七四・三パーセントを上回っていたのである( 181)。」
それから、長くなるので引用はしませんが、「ジュガール」という小さなコストで大きなリターンを得ると言うか、ちょっとしたアイデアで複雑な問題を解決するという概念がインドにはあります。著者は日本人の考え方の中心に職人気質があると捉えていて(この発想自体は船曳建夫さんなどがすでに指摘していますが)、この職人気質とインドのジュガールが正反対の考え方であるためにインドと日本で共同作業をするのが難しいという考えも述べています。
またこの本は日本についての本ではありますが、その対象としてインドが頻繁に出てくるのでインドについて学ぶことも出来ます。 例えばインドでは「反現職」という傾向があるとのことです。
「対照的に、インド政治の辞書の中でもっともポピュラーな語彙の一つは「反現職」、つまり時の権力者を選挙でその座から引きずり降ろそうとする傾向のことだ。インドは世界でもっとも高い反現職率を示す国であり、政権与党の現職候補が再選される確率は五〇パーセントを切っているのだ。」
このような考え方はもちろん政権交代を起こしやすいので、健全な民主制の社会を作るには非常に重要だと思います。日本人から見るとこれは非常に羨ましいですよね。
これはどのくらい一般的な事なのかわからないのですが、著者の体験として僕が非常に面白いと思ったのは以下の部分です。
「心の病から回復した際に大きな役割を果たしたものの一つに、瞑想があった。」
なんとなく先入観として、インドはヨガの国なので瞑想なども日常生活に根付いているのではないかと思っていたのですが、実は著者は日本に来てから初めて瞑想を行ったということです。日本の寺院での瞑想体験についてもかなり詳しく著者は筆を割いています。
日本についても、当然視点が違うので僕があまり考えていなかったような発見もあります。 例えば以下のような部分です。
「日本についてわたしが思い至ったのは、深い癒しをもたらしてくれるとともに、深く傷ついているということだった。この矛盾こそが、日本をよりリアルに感じさせてくれるのだ。」
インドはインドでカースト制度や経済的な問題などの大きなカオスがありますが、しかし日本とは別の健全性があるような印象もあったので、そのような国から来た人が日本についてこのような印象を持つことには、なんとなく納得できるものがあります。
それから僕も知らなかったアプリとしてこんなものが紹介されています。これは日本語学習者にも喜ばれるかもしれませんね。
「本章を終える前に、最高にゴージャスなスマホアプリを発見した話を記しておきたい。アプリの名は、「72 Seasons: A year seen through the ancient Japanese calendar(七二候──日本の伝統暦から見た一年)」と言い、ユーザーは七二に分かれた約五日間ずつの日本の季節──「候」と呼ばれる──を知ることができるのだ」
さて、この本は日本の良い面も悪い面も取り上げていて、僕としては非常に公平な本だと思います。 以下に著者があげている日本の良い点のうち、印象に残っている部分をいくつか引用してみたいと思います。
【称賛していること】
「小学生がバスに乗り込み、地下鉄駅で乗り換えをし、大通りを歩いて行く──何人かと一緒というときもあるが、多くの場合は一人で──という通学風景がわたしにとって当たり前のものになるには数カ月かかった。」
「遺失届件数に対する拾得物件数の割合に基づくと、日本ではお金を落としても八七・五パーセントの確率で戻ってくるということになる」
「わたしは遺伝学による決定論的なロジックには以前から 与していなかった。そこで、ほかの理由を考えてみることにした。すしをたくさん食べることで人格的に優れた人間になれるだろうか?
日本滞在中の歳月で到達した結論はこうだ──信頼は信頼を生み、 善き行いは別の 善き行いをもたらす、と。自分が落とした貴重品を誰かがわざわざ警察まで届けてくれたら、将来誰かのために同じことをしてあげようという気持ちがきわめて強くなるだろう。つまり、市民が正しく行動していることの結果というわけだ。」
長いので引用しませんが、桜の美しさについても非常に多くのページを割いています。著者はその美しさに涙を流してしまって、家族に不審がられたという描写もあります。そして日本人が花を愛する人たちであることの例として、以下のように書いています。
「これまで世界各地で暮らしてきたが、日本ほど人びとが頻繁に歩みを止めて花の写真を撮る国はほかに見たことがない。」
【批判していること】
以上のように日本について非常に賞賛している部分もあれば、逆に手厳しく批判していることもあります。 その中にも僕がもっともだと思う部分もあればちょっと意外だったところもあります。一番もっともだと思う批判は教育のIT化の遅れです。
「わたし個人について言えば、学校に通う子どもの母親という立場だったためだと思うが、デジタル化の遅さをもっともショッキングに感じたのは、教育の分野だった。(中略)
彼女から二日おきに送られてくる長文のメッセージには、中世かと見まがうような学校の対応が綴られていた。その学校がとった対応は、算数と国語の練習問題が印刷されたプリントを各家庭に 郵送で 配付するというものだった。保護者には正解の表が渡され、自分たちでチェックし、採点が済んだプリントを学校に 郵送で 返送するよう指示されていたというのだ。」
真面目な話、このようなことをしていると,その教材をコピーしたり、封筒に入れたり、封筒に住所を書いたり、切手を貼ったり、それを郵便局まで持って行ったり、とにかく気が遠くなるような手間がかかると思うのですが、どうしてこのような大変なことをわざわざするのか僕にも本当に理解できません。
それから、様々な手続きの煩雑さについてもこの本には何度も出てきます。例えば携帯電話を入手するのが非常に大変だったとか、銀行の口座を結局開くことができなかったとか。
また、日本の人種差別についてもかなり多くのページを割いています。 これについては僕も知らなかったような本がたくさん紹介されていました。
『組み込まれたレイシズム──日本における明白なマイノリティと人種差別( Embedded Racism: Japan's Visible Minorities and Racial Discrimination)』
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ルース・オゼキが二〇一三年に出した小説『あるときの物語(上下)』
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個人的には以下のような傾向はあまり感じたことはなかったのですが、最近はちょっと違うのかもしれませんね。
「日本人は問題があると、何から何まで中国人のせいにしようとする。」
日本の最大の欠点の一つとして著者があげていることは、日本人が手続きを守りすぎてそれが本当の目的よりも優先されてしまうという点です。 しかも、その手続きをなかなか変えることができない。 この点は非常に僕も同感です。
著者は国際観光振興機構の取材するジャーナリストのためのツアーに参加して、国際観光振興機構は結果的にこのようなネガティブなことを書かれることになっています。
「日本の最大の欠点の一つではないだろうか──わたしはそう考えた。あらかじめ決められた、非効率的で無駄の多い計画(一日三回の、あまりに値の張る食事) に何がなんでもしがみつき、究極の目的(好意的な内容の記事) を逸してしまう、ということだ。一週間の旅行の最後に、わたしが食をテーマに書いた唯一の記事はフグについてのもので、懐石にはまったく触れなかった。」
以上、長く書いてしまいましたが、この本は日本に対する客観的な外部からの視点として学ぶことが多いだけではなく、非常にユーモラスな文体で楽しむこともできます。そして元々は英語なので、日本語教師だけではなく学習者の人にも読んでもらって、そしてその意見を共有したりするという活動にも使えるのではないかと思います。
そして冒険は続く。