「生活通貨」(365夢Screen107)
1990年代のバブルの崩壊後、
日本日本列島の企業社会の
リーダーたちが選択したのは
新たなる事態を認識しそれを受け容れ、
その事態に対する新たな道を模索して
さらに前進し続けることではなく、
回れ右をして過去の方に目を向け、
いわば過去の自分たちとも言える
国際労働市場の人たちと
労働力の価格競争をすることだった。
ここでは問題を単純化するために、
地上の支配者の代行者とも言える
国際金融資本の明確な意図に基づく
誤誘導については無視することにしよう。
日本は世界に先駆けて
お父さんが会社からもらう給料で
お母さんが買いたいものがなという状況に突入した。
資本主義のもとでは
資金は商品の生産にしか向けることはできない。
消費は必ず生産にしたがったからだ。
だが会社が給料をお父さんに渡し、
その給料が生産代表のお父さんから
消費代表のお母さんの手に渡り、
お母さんが消費行動を行って社会が回る、
というお金の流れに齟齬が生じてきたのだ。
ここで起こるべき変化は、
ひとつはお父さんが働く時間を短縮することだ。
それでも需給バランスは回復できる。
そしてもう一つは、
無条件にお母さんに消費のための資金を
供給することだ。
もしこれができていれば、
失われた30年は起こる必要がない。
これはいわゆる「ベーシックインカム」
という思想として確立しているとも言える。
だが世にいう「ベーシックインカム」では
地上の資本主義からの離陸は起こらない。
そこには信用創造という現在の通貨の
詐欺性がそのまま温存されているため、
「ベーシックインカム」そのものが
「生活保護」的な意味合いの
一種の社会費用となってしまうからだ。
あえて「生産者」と「消費者」という
言葉を使ったとしても、
「消費者」はけっして「生産者」に間借りして
生存を許されているわけではない。
また「生産者」という下僕が
「消費者」という主人に仕えて
働いているわけでもない。
それは呼吸の吸う息と吐く息のようなものだ。
生きている人間は何かを創造し、
何かを消費しなければ生きてはいない
というだけのことだ。
ではいったい、
その消費のための資金はどのように
供給されるべきなのか?
消費のための資金とは今生活するための資金だ。
それはまず「生活通貨」として、
国際金融通貨とは分離されることが必要だ。
つまり域内の「生活通貨」は
国際金融通貨とは別の通貨として設計される。
それゆえ、
「生活通貨」は減価通貨でなければならない。
「生活通貨」とは
<今>生活するための通貨であって、
未来のための貯蓄用通貨でも投資用通貨でもない。
当たり前だが、
生きるためには今呼吸しなければならない。
誰も昨日息をすることはできないし、
誰も明日息をすることはできないからだ。
資本家が投資ゲームを楽しむ自由があるように、
庶民もまた、生活を楽しむ自由がある。
シルビオ・ゲゼルは
それを「自由通貨」と呼んだ。