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神功皇后三韓征伐1 2022.8.24

日本書紀には、卑弥呼さんと神功皇后が一緒に記載されて居る。120年と1年ずれて居る。卑弥呼さん共立が200年とすると、神功皇后が九州に来たのは320年となる。
 そんな事は無い。
 倭国䑓與の子の第13代成務天皇は在位60年である。第12代景行天皇は298年崩御して居る。翌年即位で299~359年在位となる。崩御時93歳である。もう既に何かがおかしい。
 䑓與が張政を、西晋の司馬炎の所に送り届けたのが266年である。この年に、景行との間に成務が誕生した。竹内宿禰も生まれて居る。
 356年に辰韓の日本人訖解尼師今が韓国人の金氏の新羅の奈勿尼師今に位を譲って居る。そんな筈は無い。
 当然、倭国東朝神功皇后と倭国本朝竹内宿禰の連合軍の新羅征伐が敢行された。津波に乗り、慶州(ギョンジュ)に船で乗り込んで、日本支配下に入った。
 此の時、お腹の子が動いたと云うから妊娠5ヶ月である。因って、応神天皇は357年生まれである。
 370年代に20歳代で、菟道幼郎子天皇、仁徳天皇を設ければ、390年代の半島戦争に、兎道幼郎子天皇は、出陣出来る。
 神功皇后は成務40年生まれとある。339年誕生である。18歳で応神天皇を生み、380年41歳で崩御。七支刀は372年百済から倭国に献上された。
 可成り良い推察だと感ずる。

 万葉集は雄略天皇御製歌から始まる。
 二番歌は、舒明天皇作である。
此は、福岡県香春岳に登った時の歌である。登ったのは、菟道幼郎子天皇であり、帰りを待ち侘びたのは、倭国日向国、諸県君牛諸井が女の髪長姫である。
十三番十四番歌に菟道幼郎子天皇と仁徳天皇(大鷦鷯)が、髪長姫を耳梨山に見立てて、畝傍山と香具山が引き合う様子が描かれて居る。
 仁徳天皇の仁を名に持つとは、何たる事であろうか。
 
 第8番歌は額田大作である。此は、神功皇后が遠賀川の新北から宗像の勝門姫征伐に繰り出す時の歌である。
 第9番歌
 莫○円隣之大相七兄爪謁気 わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと
此は、次の様に読む。
 静まりし 大波騒げ 吾が夫(セ)こが 射立たせりけむ いつかしがもと
 神功皇后の夫の伊都国の五十都手が射たれたぞ。静まりかえった(レビ族の)物部氏よ振るい立て。(福永晋三氏訳出、饒速日は無関係である。)

 神功皇后以降、倭国東朝は、秦王国となる。倭国本朝は、大国主命の国である。大物主尊の国では無い。
 494年即位の、倭国出身の皇后を持つ継体天皇が征服するのである。


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