歴史認識5 2022.9.25
歴史認識3に続きます。
卑弥呼さんと豊、神功皇后に関する事です。
有料情報にしたい位重要な内容ですが、福永晋三氏の動画による処が多く有り、氏に敬意を込めて氏の様に無料に致します。
魏志倭人伝に因ると、豊13年に張政が教育したとあります。
もう、ストレートに表現致します。
豊の該当者は、八坂入姫です。倭国から嫁に来たので入姫の名称が付いて居ます。生存年代は236年~286年です。
在位は張政を送った266年~286年です。結婚相手は、垂仁天皇の子の景行天皇(204年~289年、在位241年~289年半島戦で崩御)です。倭国(鹿児島県)と狗奴国(熊本県)とは元々仲が良いのです。
開花天皇系列狭穂毘賣命と垂仁天皇との子の日本武尊ー誉津別尊が、卑弥呼と戦ったのです。卑弥呼崩御後男王ではまとまらずと魏志倭人伝に有ります。此人が誉津別尊です。
子供の成務天皇(日本書紀では羽白熊鷲、現地伝承では熊鷹)は国中を整備し、60年在位したとあります。290~350年です。此後が、成務天皇の子の籠坂尊と忍熊尊です。
356年秦韓の日本人訖解尼師今から新羅人の金氏の新羅に移った時には当然、籠坂尊と忍熊尊は、半島に出撃したでしょう。
馬韓は3世紀に帯方郡により滅ぼされ、北方民族の扶余が南下し4世紀に百済となりました。
弁韓は、4世紀に倭面上国により任那となり倭面上国領となりました。
371年百済の近肖古王が高句麗故国原王を打ち取り、372年百済から贈られた石上神宮の七支刀は、垂仁天皇直径子孫の籠坂尊に贈られた物でしょう。
三国史記の5世紀の項に、新羅から倭国に嫁を欲しいとの要請が倭国より有ったが、4世紀に嫁を差し出したので断ったとの記載が有ります。此れが、倭王ー籠坂尊の結婚を祝して、百済から七支刀が贈られた372年の事でしょう。だから、九年間在位したが、籠坂天皇では無く、第3代仲哀天皇として名を留めた仲哀峠ー籠坂峠が田川と行橋の間に有るのです。
半島に三国史記が有るので、虚偽記載は出来無かった様です。
寄って、神功皇后摂政元年ー即位は、卑弥呼共立200年から🟣干支三回り後の180年後の380年更におとぼけの1年ズレの381年🟣日本書紀記載の干支辛巳です。此年に応神天皇(神功皇后の倭国東朝の弟の誉田別尊)が誕生しました。神功皇后37歳での出産です。13年後の394年に崩御したのでしょう。392年の半島戦に出撃したのでしょう。百済の辰斯王は392年に崩御して居ます。日本書紀に新羅の代わりに百済を打つとの記載が有ります。
武内宿禰の倭国本朝には、兄の古事記記載の誉田尊が即位しました。多分360年頃の誕生でしょう。16歳で産んだとすれば、神功皇后は344年生まれとなります。376年頃兎道幼郎子天皇が生まれ、392年の半島に出撃したと考えれば、巧く折り合いが付きます。此天皇は半島戦で崩御して居ます。但し問題が有ります。菟道幼郎子天皇の歌には年号が付いて居ます。此れが合わないのです。
逃れる手として、崩御したのは武内宿禰ー藤大臣とすれば良いと思われます。倭の五王の讃は、菟道幼郎子天皇です。
日本書紀の神功皇后13年に武内宿禰(実は菟道幼郎子天皇)の命で、宴会が突然開催されて居ます。神功皇后崩御と思われます。此年が394年であり、享年50歳です。崇神紀八年冬12月にも似た歌、神代の歌が記載されて居ます。
武内宿禰の誕生は、266年の60年後の成務天皇時代の336年とすれば、392年の半島戦に出撃出来ます。此処で崩御したのでしょう。享年56歳です。
以上は、殆ど推察した物ですが、時代は多少前後致しますが、歴史的には整合性が取れて居ると思います。