夜間懇話6 2022.10.24
小生は、神武天皇即位から桓武天皇迄北九州福岡県に、天皇は居たと主張して来て居ます。
殆どの人や書物は、近畿地方の奈良県や京都府に、天皇が居たと主張して居ます。
何故食い違うのでしょうか。
継体天皇オホド尊は、北陸から天皇に付いたと主張して居ます。オホド尊の石像も立って居ます。
隅田八幡神社人物写像鏡に男弟王と書かれて居ます。此は、オ・ホ・ド王と読みます。記載されて居る通り、494年即位なのです。つまり、倭国本朝の天皇です。
北陸地方の国造には蘇我氏が大勢居ました。
北陸地方は越と呼ばれます。日本の山脈を越えたから、越では無いでしょう。
230年呉の孫権軍(越人)が日本に兵隊を集めに来た時の脱走兵五千人が、北陸地方に分散し住み着いたのでは無いでしょうか。
蘇我氏は、武内宿禰子孫との話が有ります。此場合の武内宿禰は、紀の国ー和歌山県の人だそうです。
蘇我氏は、聖徳太子一族や崇峻天皇を殺害しました。ネストリウス派でしょう。
推古天皇は、上毛野君形名を使って、鹿児島県の隼人族を滅しました。
此処が、邪馬台国なのです。隋書に記載されて居ます。
今持って、中国人の張政や裴世清さえも行った邪馬台国が何処に有るのか不明と嘯いて居ます。薩長政府ー足軽政府は日本史を軽く見て居ます。新羅政府なのでしょう。
藤原氏は、神武天皇子の神八井耳命の子孫だそうです。藤原鎌足(カマタリ)に有る足は、朝鮮語でタリと呼びます。
何処迄受け入れられるでしょうか?
紀元100年代後半に活動した豊城入彦命や豊城入姫命も墓は見つかって居ません。群馬県太田市の天神山古墳は五世紀建造です。サキタマ古墳群は五世紀末以降?建造です。天神山古墳からは豊城入彦の碑文が、伊勢崎市権現山からは、千千都久和比賣命(崇神天皇娘)の碑文が発見されて居ます。群馬県高崎市車地区に有る上毛三碑に、車淑子や藤原不比等関連の文が記載されて居ます。伊勢崎市旧赤堀地区には、闘いで堀が血で赤くなったとの伝承が残って居ます。栃木県足利市毛野(ケヌ)小学校付近に本拠地があった毛の国と豊城入彦の戦いの伝承かも知れません。
日本上陸の一例を上げます。
①徐福
②饒速日
③正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
④1世紀天日槍
⑤3世紀ルビ百済
⑥179年日本の飢餓期崇神天皇
⑦230年呉の孫権軍五千人脱走
⑧誉田別天皇時秦氏
⑨479年倭王武敗戦後・・・五世紀に日本人のDNAに特異な変化が見られます。
⑩継体天皇敗戦後
の何かの人達でしょう。
崇神天皇は、128年誕生195年崩御、在位179年〜195年です。
垂仁天皇(156~234、在位196~234)、誉津別天皇(在位235~247)、倭姫天皇(在位248)景行天皇(在位249~295)、成務天皇(在位296~355)は、狗奴国(熊本県)出身の天皇です。垂仁、景行両天皇は197年から奈良県に纏向遺跡を作りました。
誉津別天皇の第2子(の子)の仲哀天皇の在位は355年~356年です。
日本武尊は誉津別天皇の長男です。266年の薨去です。
倭国東朝の第15代神功天皇の在位は、356年~362年です。
第16代誉田別(応神)天皇の在位は、363年~404年です。
第17代菟道幼郎子天皇の在位は405年~408年です。
仁徳天皇の在位は、408年~419年です。
倭国本朝では、武内(宿禰)天皇(藤大臣)が356年即位です。
以後、倭の五王が続きます。
誉田尊ー讃(在位391?~437)・・・イザホワケ
(和風諡号の出典:大元出版 斎木雲州著 出雲と蘇我王国P76下段L5)
珍(在位438~ ) ・・・・・・ミツハワケ
済(在位443?~ ) ・・・・・・オアサヅマ
興(在位462?~ ) ・・・・・・アナホ
武(在位 ~ 478) ・・・・・・ワカタケ・・埼玉県サキタマ古墳、福岡県八女市御井の岩戸山古墳(磐井:哲)より出土した鉄剣名。辛亥(471年)製造。戦勝祈願の意味が込められて居る様です。しかし、結果は敗北です。
と続きます。
又再び垂仁天皇に続いて狗奴国から出た、継体天皇は、本朝即位494年、東朝即位507年、崩御522年です。
本朝から引き連れて来た安閑天皇の在位は523~526、宣下天皇527~530です。或いは、両天皇は本朝の天皇だったのかも知れません。
欽明天皇在位は、(523)532~562年です。
タイトルを謎の古代史とすれば良かった様です。