K医師との想い出
まずお断りですが、私は「現在の」K氏の主張は全く賛同しておりません。また、彼の著書について、特に(ワクチンについて事実と異なる発信を行い不安を煽る)反ワクチンの姿勢については苦々しく思ってます。
でも、私が研修医のときには、確かに彼は、尊敬すべき点が多い医師でした。最初の著書も本文を読めば概ね主張は正しく、むしろ現代の医学では当たり前となったことの記載も多いです。
しかし外科至上主義の、医師と患者の関係が完全な主従関係であった時代に、彼の言説は非常識であり、強く糾弾されました。そして、慢性的かつ高度なストレスに晒される中で、踏ん張っていた気力が、ある日ぷつっと切れたように見えました。
おそらくその大きな変節の瞬間を見た人間として、記録を残さねばならないという義務感に駆られて、noteにまとめたいと思います。
更に言うと、私は彼が講師をしていた放射線治療科の教室で放射線科研修医として1年間の研修を行いましたが、選んだ進路は放射線診断科です。早期診断早期治療を旨とする師匠の元で10年ほど学び、検診業務も行っていて、むしろK氏とは対極側にいることを申し添えておきます。
そしてこの件を語ることは、決してK氏を擁護する目的ではありません。あくまで現在のコロナ禍において第2第3のK氏が生まれることを憂い、それを止める方法はないのか、みんなで考えるヒントになればと思って書き連ねております。
本題。
最初のツリーはこちらに纏めていただいてます。ここに言いたいことの大半が書いてありますのでご一読いただけると有り難いです。
※2023/9/11
すまとめがサービス終了したようなので、こちらに差し替えます。
ここには、他の医師から見た当時の様子もまとめられてます。当時を間近で見ていた自分が読んでも正確な内容が記されており、かつ、からあげ先生の読ませる文章に引き込まれました。
さらにしばらく間を置いて、K氏の反ワクチン本がアマゾン上位に来たことで、再びTLにK氏の話題が増えてきました。このためまた当時のことを思い出し、前回書きたらなかったことを思い出したので、追補を書きました。わかりやすくするために多少の加筆修正を加えて、こちらに転載します。
※※※
近藤誠先生の当時の愚痴。
「僕がエビデンス揃えて患者さんに治療の選択肢と各々のメリット・デメリットを提示するでしょ?時間をかけて(放射線治療より手術したほうが良いというデータを)説明し終わったところで、ではあなたはどうしたいですか?って聞くと『先生にお任せします』って言われちゃうの。もうガクーッと来ちゃうんだよね。僕の一番伝えたい事が全然伝わらないの。自分の大切な身体のことは自分で決めなさい、が一番伝えたいことなのに。」
……実際『患者よ、がんと闘うな』を読み全国から集まる患者様には、近藤先生を盲信する患者様が少なくなかったです。しかし自分の伝えたいことを伝えたくて(本を読んでほしくて)TVに出る→マスコミがセンセーショナルに扱い、視聴者に神格化される→「近藤先生の理想とする医療」と「本を読まずに飛びついた患者の希望」とのギャップは拡大。この悪循環が見て取れました。
当時の近藤誠先生は、癌や患者のステージによってあくまで医学の視点からフェアにエビデンスを繰り出していて、院内の廊下が暗くなっても外来診察は夜遅くまで及び、本当に頭が下がりました。でも近藤先生の元に集まる患者は「君は切らなくていい」と言って欲しくて来ていました。患者が手術を受け入れず、根負けして外科治療を諦めることもしばしば。正直、見ていて切なかったです。
でも内情を知らない外野から見ると、近藤誠に騙されたように見えてしまいます。
そして外科からは人格攻撃を含めた集中砲火。
今考えると、慢性的で高度なストレスに晒されながら、患者の希望を満たせない自分に悩んだ可能性があるように思います。
そして、おそらく心の中で大地震が起きてしまいました。
結果、元々患者を第一に考えていたからこそ、患者の「身体」ではなく、「希望」を最大限に尊重する方向になってしまったのではないか、と推察しています。
今、近藤誠氏の反ワクチン本を店頭などで見かけると、あの頃の理路整然とした近藤誠先生はもういないのだ、と、本当に悲しくて悔しくなります。
※※※
そういえば、当時の会話をまた一つ思い出しました。
k「著書を拝読しましたが、中身と題名が違いすぎて。」
近藤「話題にならないと僕の考えを知ってもらえないでしょ。だから題名はアイキャッチ。本文読めば真意を理解できるから。」
k「でも先生、目次も強すぎます。目次だけ追う人も勘違いします。」
近藤「本文読まないと」
k「そりゃそうなんですけど……(´・ω・`)」
この時、(近藤誠先生は長文読むの得意でしょう?でも先生の患者さん、読んでない人もいそうですよ?)と、喉まで出かかって・・・やめたんですよね。
当時の「経験則や偉い人の思い込みや我田引水に則った、患者の決定権を認めない閉鎖的な医療」を考えると、マスコミのちからを頼って風穴を開けることは必要不可欠でした。あの頃はSNSもなく、個人で自由に発信できる時代ではなかったので、致し方ない部分はあると思います。しかし戦略として行ったはずの見出しと本文のギャップが元で、患者との間に齟齬が生じ、結果、蟻地獄に呑み込まれるようにご自身が呑まれてしまったようにも見えるのです。
なお本件に関して、ガクッと来るのがおかしい、なぜ信頼されているとプラスに取らないのかと言う意見がちらほら来ています。そのご指摘もよくわかるのですが、何分、当時は説明と同意や患者の自己決定権という概念がなかった頃です。近藤誠先生は「患者と医師は平等」という意識が人並み外れて強いからこそ、説明と同意を大切にし、自己決定を促したという背景があります。
普通の医師なら患者に信頼されてることが自己肯定感や満足に繋がったのかもしれません。しかしそばで見ている限り、近藤先生は承認欲求や自己顕示欲ではなく、あくまで理論的(医学的)に間違った医療行為を潰すために動いてるように見えました。※医学と医療は異なりますが、基本的に医学(科学)に則った治療が行われるべきです。要は当時は医学と医療の乖離がひどかったので、論理的な人間ほどあの状況は看過できなかったと思われます。
思い出すのが夫婦関係の話で。
近藤先生は奥様に対しても男尊女卑の感覚が一切なく、完全にイーブン。子育ても半分やって当たり前という意識で動いてました。「理詰めで考えるとそうでしょう?男女関係なく、同じように大学へ進学して、同じように医師免許取ったのだから。そして2人の子供なんだから、2人で育てて当然でしょ?」と。 今以上に子育ては女の仕事だった時代ですから、女の私がこの考え方にびっくりしたくらいで。(ちなみに近藤先生は私がまだ医学生だった頃の医局の勧誘の折に、同じ慶應の医学部の同級生と結婚し子育てを視野に入れて医局も選んだと仰ってました。)
こんなふうに、近藤先生との会話は医学に関係ないところでも理論的で、雑談していても小気味よく、ストレスがなかったのを覚えています。
元々そういうキャラクターの医師でしたから、当時、必死に患者のために最善の道を模索するためのデータを提示し、患者の自己決定権を全く侵していませんでした。なのに、外科学会を主体としてお前は人殺しだと吊るし上げられ誹謗中傷に晒されてしまったことが、心の中の大地震に繋がったのは、まず間違いないだろうなと見ています。
そしてご指摘があったように、霊験あらたかな高額グッズは売らないし、自説と異なる人を小馬鹿にしたり煽ったりするような自撮りを載せない辺りは、ほかのトンデモ医師とは違う部分かもしれません。
今となってはもはや彼の心中を知る方法はありませんが、当時の近藤先生の中核は今も変化していないと仮定した場合、患者の心の安寧のための添え木になろうとしているのかもしれないと思うのでした。
おっと、K医師でしたね(引用からの今更感がありますが)
「トンデモ本は人を殺す」この言葉自体は間違っていないと思いますし、肩書として医師を名乗ったトンデモ本はこの世からなくなって欲しいです。ただ残念ながら、トンデモ本に傾倒しているように見える方の中の一部は、トンデモ本がなくても最初から「一般的に勧められている○○はしたくない」という信念を曲げない人です。
身近な人、大切な人が亡くなると、その人を助けられなかった無念さから犯人探しが始まり、自分に対しても強い自責の念が生じるものです。これは自死家族で特に問題になり、鬱の連鎖に繋がることが既に知られています。
なぜもっと体調変化にはやく気づいてあげられなかったのか、なぜ病院に行くのが遅れたのか、最善の治療ができたのか、自分ができることは全てできたのか・・・。こういった自責の念の待避所として、トンデモ本が憎悪を一身に担っている場合もある『かも』しれない・・・・と言ったら、怒られてしまうでしょうか。
なんにしても「トンデモ本は人を殺す」という主張は「トンデモ本を叩くことで人は殺されなくなる」という見通しでやってることなのかな?という疑問がちらつきます。
人の心もトンデモ本も、善悪で2分して叩くのは、まるでヒーローショーのように単純明快です。悪を叩く正義の味方も、それを応援する観客も安心感があります。でもその実は、もっと複雑なんですよね。外から見れば患者は全員トンデモ本の被害者なのでしょうが、元々の信念に合致しただけの人(そして安寧を得た人)もいれば、迷ってるところをトラップされて失わなくて良い生命を失ってしまった真の被害者まで様々です。
我々の目的は叩くことではなくて、最終的にトンデモ本で騙される人を減らすこと、そして「自己決定権を損なわずに納得して行動するお手伝いをすること」ではないのかなと。そのためにやるべきことは果たして「トンデモ本をぶっ叩く」が正解なのだろうか、と。
そもそも需要があるから存在している部分があるんですよね。そこを意識しないとこの問題は片付かないと思うのですよ。
末筆として。
K医師は、当時は紛れもなく「EBMと患者の自己決定権を大切にする、先駆的な医療の実践者」でした。その姿を見て学んだ医師も少なくありません。しかしいま「彼に学んだ」と言うことは憚られます。
K医師の功罪を語る上で、ここが認知されずにいることも、残念でなりません。
彼に良い影響を受けた医師たちが、現在の標準治療の一翼を担っていることは、私がどうしても記しておきたいことの一つになります。
〔追記〕
たった今初めてK医師のWikipediaを読んだのですが、ひどく驚いています。以下引用。
>近藤の広めたのは責任逃れのためのインフォームドコンセントで、近藤の持論を説明した後に患者が自己決定するという性質で
引用ここまで。
少なくとも私がK医師の外来に実際についていたときは、そのようなことは全くありませんでした。Wikipediaの文章を読む限り、K医師は最初から責任逃れのためにインフォームドコンセントを行っていたように読み取れますが、そんなことは1mmもありません。症例によって外科治療が、化学療法が、放射線治療が好成績な時がありましたし、それをフラットな立場から患者に提示していました。
現在のK氏の言動に大きな問題があるからといって、当時のK医師にまで石を投げるのは違いますよ。
私は実際に外来の横についていた、いわば中の人です。この主張をなさっている医師からの反論があれば、お受けします。
みなさんはどちらを信じていただいても構いませんけどね。