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「論文を信じてはいけない」は、誰が言ったかで意味が変わるという話

「誰が言ったかより何を言ったかが大切だ」と言い続けている私ですが、一字一句が同じ台詞でも、誰が言ったかによってまるで違う意味になることはあります。その一つが「論文を信じてはいけない」という台詞です。

陰謀論者の「論文を信じてはいけない」は…
 論文は半分以上が嘘です。論文なんて研究費や薬の売上が欲しい人達や目立ちたい、出世したい人が我欲で書いているだけだから、論文にはほとんど価値はないです。それより自分の直感を信じましょう。
…という意味で使われています。

一方、科学者の「論文を信じてはいけない」は…
 過去から積み上げられた論文達が集合体となって現代科学を作り上げているけれど、どんなに格の高いジャーナルですら間違った論文が紛れ込むこともあります。だから懐疑的な目を失ってはいけません。
…という意味です。

同じ台詞で、全く意味が違いますね。

陰謀論者は、よくこの台詞を用いて医学を含む科学を否定し、高額サプリや未承認の自費点滴、自著の一般書、有料講演や月額制〇〇動画、有料noteや有料voicyに誘い込みます。要は、私腹を肥やします。

対して科学者は、この台詞で、懐疑的に検証し己を律せよ、と戒めます。

しかし陰謀論者は、科学者の言うこの「論文を信じるな」を引用し、「世界的研究者の◯◯先生がこう言ってる!だから論文は信じてはいけない!」と、第三者の肩書や経歴を利用します。

・・・意味が違うんですけどね。

その一方で「科学者は権威に弱い」と言い放つこともしばしばです。

「世界的研究者の~」みたいな枕詞を使いながらトンデモを流布している人が言う台詞なんだろうか。まあよいんだけれども(よくない)。

閑話休題

私たちは、先人たちが「生活の質を高め、長く生きられる人を増やし、不幸を減らすために発展させてきた科学」の恩恵を受け、今ここに生きています。そのことを忘れて科学に後ろ足で砂をかける人達を見ていると、先人たちへの感謝や敬意を忘れるなんて、ちょっといくらなんでも傲慢ではないかな、と思ってしまいます。だって、蛇口をひねるだけで清潔な水が手に入ることを1つとっても、浄水の技術と微生物学が生かされてるわけですし。

私事になりますが、私の父方の祖母は、父を生んで1週間程度で産褥熱で敗血症になり、母方の祖母は、母の妹か弟を妊娠中に前置胎盤の大量出血を起こし、二人とも30歳前後で亡くなりました。

産褥熱や前置胎盤は怖い病気ですが、今では医学の進歩と医療の普及のおかげで、命を落とす人は非常に少なくなりました。そんなこんなで、両親から実母の顔を知らずに育った悲しさや、切なさや、悔しさを聞きながら育ってきました。

私自身も20-30歳ごろに2度の大病をしています。産婦人科疾患なので、祖母たちとは偶然の一致とは思いつつも、不思議なものを感じます。なんにせよ、放置すればどちらも死ぬ病気ですから、祖母の時代であれば、病は私を確実に仕留めていたことでしょう。そうしたら息子達にも会えずに人生が閉じていたわけで、先人たちの努力に感謝してもしきれないというか。

祖母たちは、実子の成長を自分の目で見たかったろうなあと思うと、自分は無事に年を重ねておばさんになれて、ありがたいなぁと思うのです。もうね、命あっての物種、生きてるだけで丸儲けです。おばさん上等なんですよ。

そんなわけで、患者側として医学と医療に感謝しつつ、医師としても医療業界の末席に加わらせて頂いていることと、大学と予備校で後進教育にまで携わらせていただいていることを、心からありがたく思っております。

そして自分を育ててくれた教育機関にも、深く感謝をするのでした。

おしまい。


卒園した幼稚園HPから画像をお借りしました。
https://www.shirayuri.ed.jp/kindergarten/outline/outline.html

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