コーヒーカップの起源: コーヒーカップの誕生(2)
前回の記事では、「コーヒーカップ」「デミタスカップ」、はたまた「ワールドカップ」などの「カップ」とはなにかということを紹介しました。本記事では、「カップ」のなかでも、とりわけ「コーヒーカップ」がどのように誕生したかに迫ります。日本との意外な結びつきが見つかり、少しだけ近代ヨーロッパ世界がコーヒーを通じて身近に感じられるかもしれません。
「コーヒーカップ」前史
コーヒーがヨーロッパにもたらされたのは、16世紀後半から17世紀にかけてのことです。紅茶もほぼ同時期にヨーロッパにもたらされました。
ここで手短かにコーヒーが人間によって運ばれていく経路を見てみたいと思います。原産地はエチオピアからコンゴにかけてですが、初めにコーヒーはアラビア半島のイエメンに渡り、イエメンから中東へと広がります。イラン・イラク周辺を起点として、その後コーヒーは二方面に広がります。一つは東方のインド方面へ、もう一つは北西へと進みヨーロッパに広がりました。
ヨーロッパへの流入ルートは陸路と地中海を経由した海路の二つが知られています。その後もっぱら消費地となったヨーロッパとは対照的に、インドにもたらされたコーヒーは、インド南部においてもっとも早い時期のコーヒープランテーション(オランダの植民地)へと発展していきます。
コーヒーハウスの流行
コーヒーが1600年代にヨーロッパで一気に人気を博したことはよく知られた話です。ヨーロッパにおけるコーヒーの拡散を示すデータとしてはコーヒーハウスの急激な拡大を見るのがいいかもしれません。たとえば、ロンドンに最初のコーヒーハウスが開業するのは1651年です。その後、わずか20年足らずで、イングランド全土にコーヒーハウスは3000軒を数えるまでになりました。
同様の現象はヨーロッパの諸都市でもみられます。イングランドに遅れながらも、ダブリン、パリ、ウィーン、ヴェニスなどでもコーヒーハウスが次々に現れ、コーヒーハウスを通じてコーヒーはヨーロッパの人々に広がり浸透していきました。
コーヒーに洗礼を与える教皇
コーヒーの爆発的な人気を示す事例としてもう一つみておきたいと思います。必ずこうした物語についてまわる「真偽不明」の「伝説的」な逸話です。
16世紀末から17世紀初頭にかけて教皇の地位にあり、おそらく教皇として初めてコーヒーを飲んだと考えられている教皇クレメンス8世(第231代教皇)は、根っからの「コーヒー党」だったそうです。当時、東方からもたらされて日の浅いコーヒーは異教徒の食習慣であり、「悪魔の黒い飲み物」と忌避されていました。そんなある日、教皇の元に「コーヒーを禁止してはどうか?」という提案が上がってきました。もともとコーヒーを飲んでいた教皇は「いっそのことコーヒーに洗礼を与えてはどうか?」と言ったというのです。
この逸話は至るところで繰り返し語られてきました。しかし、真偽の程は定かではありません。ただ、この話が嘘だろうと本当だろうと、まぎれもなく当時の時代精神をもっとも反映する人物のひとり(教皇)をネタに、コーヒーとヨーロッパの出会いが語られてきたという事実だけは覆りません。そして、そのことにこそ、コーヒーがいかに驚愕をもってヨーロッパに受け入れられたかを示す重要な証拠だともいえるのです。
そもそも、コーヒーが人気になったのはなぜ?
コーヒーがヨーロッパの人々のあいだにコーヒーハウスを通じて広まったのは以上に見た通りですが、では、なぜコーヒーが好まれたのでしょうか? もっといえば、教皇クレメンス8世を魅了したコーヒーの「魅力」とはなんだったのでしょう?
現代においても、コーヒーが大好きだという人は多くいます。しかし、現代を生きる人々が「コーヒーが好き」というのとは、少し違う事情が当時のヨーロッパにはあったようです。
その一つが、「飲用水」の問題だと言われています。当時のヨーロッパでは、朝食にアルコール入りのビールやワインを飲むことが一般的でした。朝からお酒を飲まなければならなかったのは、都市生活者の多くが衛生的な生水(加熱していない水)にアクセスできなかったからです。
当時の都市では、現代のように殺菌処理がされた安全な水道水があるわけでもなければ、ペットボトルに入れられた衛生的な天然水が安価で販売されているわけでもありません。
朝食の際には、喉の乾きをアルコール飲料で紛らわすしかなかったわけです。そんな当時の人々にとって、コーヒーの登場は画期的な出来事として受け止められました。仕事前にスッキリとしたままでいられる。アルコールで体が火照ることもありません。19世紀以後とりわけ20世紀になると、産業革命を経た人々はコーヒーによって労働生産性が向上することに気がつきます。「コーヒーブレイク」という「仕事の中休み」を意味する言葉が生まれるのは1950年代のことですが、それはまた別の機会に。
コーヒーカップの誕生
少々脇道に逸れてしまいましたが、先に答えを記してしまえば、コーヒー専用のカップとして「コーヒーカップ」が登場したのは1750年代(18世紀中葉)のことでした。
クレメンス8世を魅了し、ヨーロッパ中にコーヒーハウスを通じて広まった東洋の黒い飲み物は、「コーヒーカップ」が登場する100年以上も前から存在しました。では、コーヒー専用のカップが登場する以前、人々はどんな器でコーヒーを飲んでいたのでしょう?
アツくて熱くてたまらない時代
コーヒーカップが登場する以前、人々は小型のスープボウルにコーヒーを入れて飲んでいたことが知られています。
当時のコーヒーハウスでの様子を描いた一枚の画像のリンクを貼っておきます。ぜひ、高解像度の画像をアップにして、コーヒーハウスに集う人々の手元やテーブルに置かれた器を見てみてください。
上の大英博物館が収蔵するイメージは、学校の教科書にも採用されています。どこかで見た記憶がある方もいらっしゃるかもしれません。
給仕をするウェイターの注ぐポットのコーヒーは、取手のないカップに注がれています。テーブルに置かれたカップを見ても、取手(ハンドル)がついているものはありません。取手がないのはたまたまでしょうか? ましてやすべてのお客さんが画家から取手の見えない角度でカップを置いているというのも考えづらいことです。当時のコーヒーは取手のないカップに注がれていたと考えるのが自然です。
このように、17世紀当時のコーヒーハウスでは、取手のないカップが使用されていました。小さな「スープボウル」状の器でコーヒーを楽しむのが一般的であり、注がれたばかりの熱いコーヒーが入った「スープボウル」は持つのが困難なほど熱かったようです。
「熱い」が生み出した発明:ソーサーの誕生
熱いコーヒーを飲むためにできることは三つしかありません。
1 熱いのを我慢して飲む
2 冷めるのを待つ
3 何らかの方策を講じて意図的に冷ます
コーヒーハウス内で議論が白熱しているのなら、自然と時間が経過してコーヒーは冷めてくれるかもしれません。火傷覚悟で熱々に熱せされたコーヒーを飲むことが現実的ではないとすれば、何らかの方策を講じてコーヒーを冷ますより仕方ありません。そこで考えられたものこそ「ソーサー」です。
ソーサーは1700年頃誕生したと言われています。現代の私たちもカップを載せる「皿」「お盆」のような食器として「ソーサー」を利用していますが、「ソーサー」の目的が今とはまるで違います。今では「見栄え」のためであったり、「カップの口元から垂れるコーヒー液でテーブルを汚してしまわない」ためであったりしますが、当時の「ソーサー」は「コーヒーを移し替える容器」として存在していました。
つまり、人々は熱々のコーヒーを「スープボウル」状の器に注いでもらうと、それを飲む分ずつ「ソーサー」に移し替え、コーヒーを冷まし、ソーサーから飲んでいました。
ソーサーが食器の皿から発展してきたことを示す証拠は、19世紀、20世紀になってもまだみられます。例えば、下のリトグラフは、adsum coffeeの最初の記事でも取り上げたものですが、ソーサーのサイズや形状は現代の私たちがイメージするものよりもずっと皿に近いのではないでしょうか?
つづいて、大西洋を渡りパリの<cafe de la Rotonde>で撮影された有名な一枚を見てみましょう。
パイプをくわえたパブロ・ピカソと「モンパルナスの帝王」と呼ばれたモイズ・キスリングをおさめた一枚です。1916年に撮影されたものですが、見ていただきたいのは、20世紀の天才画家でも、キスリングの特徴的なおかっぱヘアーでもなく、テーブルのカップとソーサーです。画像は白飛びしており、細部は見づらいものの、ソーサーは、ソーサーというよりスープ皿に近い形状をしています。
このように20世紀に至るまで、ソーサーには皿だった頃の名残が見て取れます。
コーヒーカップの誕生
ふたたび時代を遡り、18世紀に話を戻しましょう。
1700年頃に考え出されたソーサーを使ってスープボウルからコーヒーを飲むこと50年、1750年代になりました。当時のロンドンで、現代のコーヒーカップの原型がようやく誕生します。誰が発明したかもはっきりしており、名をRobert Adams(ロバート・アダムス)と言います。アダムスが考えたのは、熱さへのさらなる対策でした。いくらソーサーにコーヒーを移すからといって、スープボウルは依然として熱いままで持ちづらいのです。そこで彼は器に取手をつけることを思いつきました。
一説には、コーヒーカップよりも若干早く、紅茶用のカップがドイツで(プロイセン王に囲われた錬金術師によって)発明されており、紅茶用のカップをヒントにイギリス人の彼がコーヒー用のカップを思いついたとも言われていますが、紅茶用のカップにハンドルが付いたのはたしかにコーヒーカップより30年ほど早いものの、そのハンドル付きの形状のティーカップが普及するのは19世紀になってからのことなので、実際にロバート・アダムスがドイツで生まれたティーカップを見て「ハンドル」をつけることを思いついたのかどうかははっきりしていません。しかし、アダムスがカップにハンドルをつけたことで、それまで持つのも熱かった器が容易に持てるようになったのです。これは大きな変化でした。
では、実際当時の「コーヒーカップ」はどんなものだったのでしょう? 大英博物館のデジタル・アーカイブスにお邪魔してみましょう。
大英博物館が収蔵する18世紀中葉、つまりアダムスがコーヒーカップを発明した当時のコーヒーカップは、どれもよく似た特徴があります。上のものもその一つですが、それは「どこか日本の湯呑みに取手をつけたような形状をしているということです。図柄も何となく「和風」なものが多く見られます。それはなぜなのでしょう?
カップは広東と伊万里に倣った
前回の記事でも紹介した通り、カップと並んで私たちにも馴染みがある「マグ」は紀元前から存在しており、何千年も前からすでにハンドルがついていました。カップにもハンドルがあるものが古代から存在してきましたが、それらヨーロッパの人々がもともと知っている器は18世紀に誕生した「ハンドル付きコーヒーカップ」の起源とは直接的には結びつきません。
ヨーロッパに古くからあるハンドル付きの器はどちらかといえば「酒器」であり、お茶やコーヒーを飲むためのものではなかったのです。
他方、東の国からやってきたお茶やコーヒーは、ヨーロッパの人々にって真新しい舶来品でした。今まで飲んだことのない、新しい飲み物がお茶やコーヒーであったのであり、と同時に、新しい飲料は彼らが見たことも使ったこともない器と一緒に輸入されたのです。
茶器そのものの歴史を辿ると、その発祥は紀元前の中国に行き着きます。お茶を飲むための専用の器という概念は、ヨーロッパにはそもそもありませんでした。つまり、茶器という発想自体がヨーロッパの人々にとっては新鮮なものでした。
したがって、コーヒーやお茶が海を渡って東から流入するようになった17世紀当時、ヨーロッパの人々は、しきりに中国の広東や日本の伊万里の茶器でコーヒーや紅茶を楽しむことを好みました。
それまで彼らが使っていた小ぶりの「スープボウル」に比べても小さなハンドルのない東洋の器(カップ)が、ロバート・アダムスたちの想像力を刺激したと考えるのは想像に難くありません。
アダムスが初めてカップにハンドルをつけたとき、それはヨーロッパ製のスープボウルにではなく、アジア製の茶器をベースに利用したようです。日本でごく当たり前に使われている湯呑みや茶呑みに取手をつけたものが、もっとも初期のコーヒーカップだったわけです。ですから、大英博物館の古いコーヒーカップのコレクションを見ると、どこか日本の「台所」の雰囲気がついてまわるのかもしれません。コーヒーカップの起源に実は日本の茶器が関わっているという事実は、なかなか興味深いのではないでしょうか。
最後に
本記事では、コーヒーカップ誕生の歴史を短く振り返りました。その起源は東方から持ち込まれたお茶やコーヒーと一緒にやってきた、中国や日本の茶器に起源がありました。ヨーロッパにおける陶磁器の歴史を振り返ることはできませんでしたが、ロバート・アダムスよりも早く、プロイセンで紅茶用のカップを発明した錬金術師こそ、のちにマイセンの名で知られるヨーロッパ製陶磁器の生みの親です。
新しいカップを手に取るとき、そのカップがどこからどのように生まれてきたのか考えてみるのも、コーヒーを楽しむことの一部かもしれません。
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