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「会社は、家族ではない」という話。

みなさんは、「会社って、何」だと思いますか?


松下幸之助氏が「みな家族やないか、だから誰も解雇しない」という主旨のことを仰っていたという逸話がありますよね。

とても日本的な企業を表していて、素晴らしい会社の印象を持ちますよね。

でも、私はこういう会社を目指したい(目指すべき)と、今の時点では少なくとも思っていません。

今日は、それがなぜか、という話を書いてみたいと思います。

日本は、もはや今後も豊かな、先進国ではない

これは、みなさん、気づいているかもしれませんが、日本は、もはや今後も今までのように豊かな先進国であり続けるのは難しい状況です。

「ただし、みんなが必死で頑張らなければ」、ということだと私は思っています。

我々は、近代的なITを活用した産業を起こす点で、後進国化していると言っても過言ではありません。

しかし、まだ豊かな、恵まれた国です。そんな中では、人を守ることは文句なしに正義と捉えられる傾向がありますが、厳しい現実を忘れて甘い環境を作ることは、「ゆでガエル」現象をつくってしまうことに他なりません。

※「ゆでガエル現象」とは、カエルをお湯に放り込むと熱さに気づいてすぐ飛び出すが、最初は冷たい水から少しずつお湯を温めていくと、それに気づかず最後には死んでしまう、という話です。

言いたくないことではありますが、日本が今、その状態にあると言っていいかもしれません。もちろん、死ぬわけではないですが。

「データの使い方も右にならえ」、「ITは後付けで使う」、そんな状態ではもう、世界と戦えなくなってくるのです。

「ものづくり」の国だから大丈夫だ、という人もいます。

しかし、今、急速に「ものづくり」のあり方も変わって行っています。人々が欲しがるものに改良し続けなければなりません。

弊社は、この点でWebマーケティングの活用を提唱しているわなかでですが、この話は今回は置いておきましょう。

まず、この危機感が私にはある、というのが一つあります。

ニッパチの法則は、認めなければならない事実である

パレートの法則、ニッパチの法則など言われますが、要は20%の人が80%の収益を稼ぎ出す、というのがどんな組織でも起こることは事実であると思います。

これは、その当人が優秀であるかどうかではなく、組織に100人の人を集めると、自然とそういう区分けができて行ってA:20%(収益を稼ぎ出す中心になる)、B:60%(可もなく不可もなく、オペレーティブに仕事をこなす)、C:20%(収益に貢献しない)というのはどうしてもおきてしまうものだと思うのです。

この点を色んな方法で避けようと、多くの人が奮闘してきたと思いますが、これはほぼ抗えない、もうどこでも起きている事実なんだと思います。

人間ってこういうもの、と認めなければなりません。

自分も含めてみんなが、頑張り続けなければAやBにとどまるのは難しいのです。

自分たちのために働くのではなく、社会貢献の会社にしたい

「会社は家族だ」、と言って社員を守ることは、社員にとっては短期的な安心につながるかもしれませんが、上述の通り、競争が激しい中で甘い言葉をいうことが、実質的に会社のため、長期的には社員のためにならないことを理解しなければならないと考えています。

また、会社は誰のものか、という議論があります。株主のもの、社員のもの、といういろんな議論があります。

私の答えは、「社会のもの」、だと思うのです。

社会が発展するために必要な会社は残るし、そうでない会社は退出する。

そういうことだと思っています。

そんな中で、社会に貢献することが「使命」であり、生き残る唯一の道なのです。そこをあたかも甘い言葉で社員をゆでガエルにすることはよくない、と私は思っています。

生き残ること、が会社にとって最も大事なことなのです。

楽しく仕事ができているとか、そういうことは後からついてくるかもしれませんが、生きていなければ、なんの理想も実現できないのが現実です。

ここで生きるために稼ぐことを目的にする会社であれば「会社は、家族である」と言ってなんら問題ないかも知れません。

しかし、我々は違います。世界に変革を起こすために、会社を立ち上げたのですから、ただ生きているだけでは存在意義がありません

会社メンバーは、ベクトルが同じ同志の集まりである

では、会社は「家族」でなければなんなのでしょうか?私は、「同志の集まり」だと考えています。

さらに、「志」というものには、「向き」「強さ」があると考えます。

こんな世界が実現できたらいいよね、と同じ方向をみられるのは「向き」です。一方、それに対して「行動を伴い、力をかけること」は「強さ」です。

向きと強さを表すので、「(志の)ベクトル」と捉えます。

この志の「ベクトル」が共鳴する仲間が集まる「会社」であるべきだと考えています。

ここで厄介なのは「強さ」です。なぜなら、これは日々、変わるからです。体調によっても変わるし、人によっては天候によっても変わるかもしれません。あるとても「強い」志を持っている人が、会社が向いている方向と数度ずれると、それはうまく働かない、のです。

だから、難しいのです。

特にスタートアップは、状況によって、時間単位でステージが変わります。従って、ステージによってあるべき仲間が変わることすらありうると思っています。

初期に集まったメンバーが、ずっと残り続けるということは、素晴らしいことですが奇跡に近いことだと考えています。

これは創業社長ですら、同じことだと思います。自分の能力が合わなければ、中心から外れるべき、です。

もちろん、外れるといっても会社から抜けるということではなく、2:8(ニッパチ)の2ではいられなくなるということです。

経営に近ければ近いほど、常に危機意識とベクトル合わせが必要なのです。

余談ですが、会社って英語ではコーポレーション(Corporation)ですよね。この音が、共同作業(コ・オペレーション=Co-Operation)に近いと感じます。つまり、みんなの努力や頑張りを集める共同作業=共創の場所、だと。

組織の志ベクトルがあり、そこに力を合わせるもの、なんですね。

従って、必ずしも各個人が「自分のやりたいことを表現する場所ではない」ということです。

家族です、というと、「やりたいことをやらせてあげたい」とか「つながりが重要」という風に捉えてしまいます。

私はこういう組織は弱い、弱くなると思っています。私個人を含め、人間は弱い生き物、怠惰な生き物です。

志を世界一レベルで持ち続けるのは、本当にしんどいことだと思っています。創業社長であるはずの私自身ですら、たまに「しんどい」と感じることがあります。

これを、社員に強要するのは酷だと思うのです。

みんなにはみんなの生き方、大事にするものがあって、然るべきです。

だから、「ベクトルが一緒なら、一緒に戦えば良い」し、「ベクトルがずれてきたら、休憩や卒業」をすれば良いし、また「ベクトルが再び合ってきたら、戻って一緒に戦えば良い」と思うのです。

みんなで創るべきものを、集まって、皆が貢献して創る、ということです。

だから、目的に向かって、作業を進められない人がいた時、私は「家族だからいいでしょ」とは言えないんですよね。

私は、その人にもっともベクトルが合ったことを勧めてあげるのが、会社の経営者やマネージャーとしての正義だと思うのです。

もちろん、ベクトルを合わせられる環境を色々試し、アドバイスをし、相談に乗った上で、「やっぱ違うよね」となることがあるかと思います。

その人のベクトルが会社内で用意できない場合、別々の道に進むことを提案することこそが、その社員の幸せを本気で考えることでないかと思います。

ちなみに、松下幸之助氏も、社員を絶対に解雇しないと言ったわけではないという記事もあるようですね。

何れにしても、松下幸之助氏の時代と今は違ってきています。

そして、スタートアップと大企業でもその背景にあるもの、守るべきものは、重要なことは異なってきます。

少なくとも我々は、このように考えています。

経営者、マネージャーはその重責が中心に近づけば近づくほど重くのしかかります。自分より強いベクトルを持った人が現れた時、中心の席を譲るべきだ、と考えます。譲れないとしたら、ベクトルを負に働かせる因子になってしまうと考えています。

一方で志のベクトルが違う人が活躍できる雇用形態もどんどん生まれてくると思います。業務委託、フリーランス、パートナーなど、スキルが高い人たちは、こういう貢献も可能な世の中になっています。

ただ、同じベクトルを持つ同志は、必死で守るべきですし、ベクトルを維持・強化していくためのカルチャーを創っていくのは、経営者の仕事だと思います。

その上で、全員が家族のようになれることは、とても高い目標ですし、社内外関係なく、そのような関係を持てることを目指していきたいと思っています。

今回は、「会社とは」に関する考え方を書いてみました。

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