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7.唐招提寺 千手観音立像

実際に1000本前後の手を持つ千手観音せんじゅかんのん
千手観音像の三大名作と言われているうちのひとつ、奈良唐招提寺とうしょうだいじ金堂の千手観音菩薩立像のご紹介。
平成22年発行の平城遷都1300年記念切手に採用された。

三大名作・・唐招提寺葛井寺ふじいでら(大阪府)、寿宝寺じゅほうじ(京都府)の像。

像の詳細

国宝に指定。
唐招提寺金堂所在
木心乾漆もくしんかんしつ 漆箔しっぱく(漆を塗った上に金箔を押す技法)
像高536.0cm
奈良時代 8世紀

千手観音について

千の手と千の眼(手のひらに眼がある)を持つことから、千手千眼観世音菩薩せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ千手千眼観自在菩薩せんじゅせんげんかんじざいぼさつともいわれる。
観音菩薩があまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の眼を得たいと誓い、この姿になった。
千の手と千の眼によって悩み苦しむ衆生を見つけ、もらさず救済する。千の手と眼は慈悲の広大さを表している。

観音菩薩の中でも得られる功徳が大きいことから、観音の中の王という意味で「蓮華王れんげおう」「観音王」と呼ばれることもある。

眷属けんぞく二十八部衆にじゅうはちぶしゅうで、阿修羅あしゅら金剛力士こんごうりきしなどを従えている。

また六観音ろくかんのんの一つに数えられ餓鬼道がきどうに迷う人々を救うといわれる。

六観音とは
地獄餓鬼がき畜生ちくしょう修羅しゅら人間六道ろくどうにいて、それぞれの衆生を救うという六体の観世音菩薩

六道ろくどう・・仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。


像の特徴

一般的な千手観音像の手の数は42本だが、この像は脇手わきしゅ(大きな手)42本脇手わきしゅ(小さな手)911本、合わせて953本あり、両肩から脇にかけて小脇手が円形に広がり、バランスよく配され不自然さを感じさせない。本来は1000本あったと考えられている。
中には墨書きされたの残る手もある。

実際に1000本の手を持つものを真数しんすう千手観音という。
有名なものに三大名作といわれる、唐招提寺葛井寺ふじいでら(大阪府)、寿宝寺じゅほうじ(京都府)の像がある。

胸前の手は合掌印がっしょういん、腹前の手には宝鉢ほうはつ(食器の一種)を持つ。

千手観音像の持物じもつ(持ち物)については、『千手千眼陀羅尼だらに経』などの経典に説かれており、おおむね経典にしたがって造形され、それぞれに意味役割がある。
たとえば宝鉢には、腹の病気を治したり、食べ物を呼び寄せるという意味がある。

一般的な千手観音像は十一面四十二が多い
千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされているが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、42本の手で「千手」を表す像が多い。
四十二の意味については、胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うものであり、「25×40=1,000」であると説明されている。
また千手観音像の中には十一面ではなく、一面二十七面の作例もある。

四角ばった輪郭にすずし気な目鼻立ち。
額には縦長に走る第三の眼
豊かな体躯。
光背こうはいは頭の後ろの頭光ずこうのみだが、放射状に広がった手が身光しんこうのように見える。

光背こうはい
仏身から発する光明をかたどった、仏像の背後にある飾り。後光を目にみえる形に表したもの。頭部のものを頭光ずこう、身体部のものを身光しんこうという。


天冠台てんかんだい(冠を載せる台)や光背をはじめ装飾部分のデザインが極めて細やかで美しい。
この像は、木心乾漆造もくしんかんしつづくりの技法で造られている。

木心乾漆造とは
像の大体の形を木彫で造り、この上に麻布を貼り、木屎漆こくそうるし(木の粉や繊維くずなどを漆にまぜたもの)を盛り上げて完成させる像。奈良時代後半から平安時代初期にかけて行なわれた。


木心乾漆像の中では最大で、仏像の大きさの基準の丈六じょうろく(一丈六尺)より大きい丈八(一丈八尺)と国内では珍しい大きさの像。

丈六仏じょうろくぶつについて
丈六とは1丈6尺の略で、約4.85m。(1丈=10尺 1尺=約30.3cm)
仏の身長がこの大きさといわれることから、仏像は丈六を基準に造られている
立像(立った像)の高さが1丈6尺の仏像を丈六仏という。
坐像(座った像)では半分の8尺(2.43m)の高さのものをいい、立った時に1丈6尺になることを想定している。(半丈六仏は約8尺の立像のこと。)


像の造られた背景

唐招提寺について

唐招提寺
は、鑑真和上がんじんわじょう新田部親王にいたべしんのうの旧宅地を下賜かしされ、天平宝字てんぴょうほうじ3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開いたのが始まり。「唐律招提とうりつしょうだい」と名付けられ、当初は講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけだった。
金堂鑑真没後の8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝にょほうの尽力により完成したといわれる。

鑑真・・中国、唐の高僧。五度の渡航失敗を乗り越え、遣唐使船で日本に渡り、唐招提寺を開く。


像の制作年代について

昭和47年(1972)2月、修理の際に千手観音とともに金堂に安置されている薬師如来像の左手の掌3枚の銅銭が埋め込まれているのが発見された。
和同開珎わどうかいちん隆平永宝りゅうへいえいほう万年通宝まんねんつうほう」の三枚。
発見された銅銭のなかで、最も新しく作られたのは「隆平永宝」。
隆平永宝」は、延暦15年(796)11月の詔により鋳造されたもので、薬師如来立像はこの時期以降に造立されたものとみられる。

現在では、同じく金堂に安置されている盧舎那仏るしゃなぶつ奈良時代の制作、その後に千手観音像、最後に薬師如来像という順に制作されたというのが、一般的な見方になっている。


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