見出し画像

「ミャンマー民主化」はなぜ失敗したのか

序章 2021年クーデター

2021年2月1日、ミャンマー最高指導者のアウンサンスーチーと側近のウィンミン大統領は軍の部隊に突然拘束された。ミャンマー国軍は首都ネーピードーおよびヤンゴンの主要拠点を制圧、政府高官を拘束した。アウンサンスーチー拘束から4時間後、軍は憲法第417条に基づき非常事態宣言を宣告、418条に基づき国軍最高司令官が全権を握った。あくまで憲法に則った措置ではあるが、事実上のクーデターであった。

2011年に民政移管、つまり「民主化」がなされて、2016年の総選挙でアウンサンスーチー率いるNLD政権が成立した。対米関係の改善、海外からの投資により7%の経済成長を達成している。対外的に見れば、ミャンマーは順調に成長する民主国家として歩み始めていたようにも見えた。「民主化」の夢は軍によって潰されてしまい、国内外で怒りと失望の中抗議活動が拡大した。

ミャンマー情勢は混沌の底に落ちた。国軍と民主派反国軍勢力の武力衝突は収まる気配が見えない。ミャンマーに投資した企業の引き上げも増えて経済も停滞した。日本でもミャンマー国軍のクーデターに抗議する活動が広まっている。このnoteを読む人の中にも街角に立つミャンマー人に募金した人がいるのではないだろうか。

ミャンマーの苦境に寄り添いたいという人は多いが、しかしミャンマーがなぜ今のような状態になったのか知る人は少ない。ミャンマーの「民主化」が始まったのは2011年の民政移管からである。なぜこの試みは失敗したのか、アウンサンスーチーにはどのような失点があったのか、ミャンマーは今後どうかるのか、どのように関わっていけばいいのかを書いていきたい。

1章 軍事政権とは何か

1-1.「国軍」がミャンマーを作った

ミャンマーを牛耳る軍事政権はよく「国軍」と呼ばれる。国軍はある日突然力を持って権力を握ったわけではない。国軍の起源は太平洋戦争の時代に遡る。当時の日本は英領ビルマの英国軍を駆逐するために、民族独立運動家であったアウンサンを支援し、ビルマ独立義勇軍を創設した。この組織が現代のミャンマー国軍の母体となった。

アウンサンの独立組織は当初日本に協力的だったが、日本側が約束した通りの独立を与えなかったこと、日本側の敗戦が濃厚になったことから英国側に寝返った。終戦後、再び英国の植民地となり、ビルマ独立義勇軍も植民地軍に組み込まれた。アウンサンは軍を去って独立組織のリーダーとなり、英国と交渉を行う。

最終的に英国と独立の約束までこぎつけたが、アウンサンは反英主義者であり、日本と協力していた過去を嫌うものも英国側に多かった。アウンサン率いる独立組織は議会選挙で圧倒的多数を獲得した。しかし独立の直前にアウンサンは暗殺されてしまう。

アウンサンが築いた独立組織は反ファシスト人民自由連盟といい、独立後も与党の座を維持し続けた。現代のミャンマーにつながる体制はアウンサンを中心に形成された独立義勇軍と反ファシスト人民自由連盟という独立組織によって築かれた。彼らは外国と協力しつつも、「ビルマ人の国」の完全独立を目指しており、外国勢力が支配の意思を示したときは激しく抵抗した。

独立後のミャンマーは鎖国的政策を行う傾向があったが、外国勢力が隙あらば支配を狙っていた時代に源流がある。さらに歴史を遡ると、かつて栄華を築いたコンバウン朝が、英国との戦争で徐々に領土を奪われ、インド人や中国人など英国により持ち込まれた移民がもともとあった社会を大きく変えてしまったことが、この国に根深い外国人不信となり染み付いてしまった。いずれにせよ、その外国不信がビルマナショナリズムに深く影を落としている。ビルマナショナリズムを背景として植民地時代にアウンサンを中心として形成された独立運動が現代ミャンマーの原型となった。

1-2. ミャンマー独立後の危機

独立後のミャンマーの歴史は前途多難であった。独立を率いた反ファシスト人民自由連盟は事実上一党独裁化し、汚職と派閥抗争が常態化するようになった。国内ではビルマ共産党による反乱や少数民族の分離独立運動が相次いでいた。中国の国共内戦で敗れた国民党軍もミャンマー北部に逃げてきて、現地の少数民族反政府勢力を支援した。

独立直後から国内で数多の戦乱があり、政府は機能不全に陥っていた。少数民族分離派、共産党武装勢力、中国国民党軍と戦い続けてきたのがミャンマー国軍であった。一時期はヤンゴン周辺まで統治領域が後退していた政府であったが、国軍は最終的にミャンマー平野部の支配を取り戻すことに成功した。彼らには独立を導いてきたという自負があり、ミャンマー国家の統一を守ることができるのは自分たちしかいないと今でも自負している。

1962年、腐敗しきった与党政権を国軍は見限りクーデターを起こした。ミャンマーではたびたびクーデターが起こるが、基本的に「国内がどうしようもなくなる→軍がクーデターを起こして引き締めを図る」という構図がある。クーデターのあとにできるのが所謂「軍事政権」と呼ばれるものだ。軍事政権から民政移管する、民政移管した政府が行き詰まる、軍がクーデターを起こして軍事政権が復活するというのを繰り返しており、2021年のクーデターもミャンマーの歴史ではよくあることではあった。

1-3. 国軍の目的

ではミャンマー国軍にはどのような思想があるのだろうか。62年のクーデターでは社会主義が導入され、88年のクーデターでは市場経済が段階的に導入され、2011年には軍主導により民主主義が導入された。イデオロギーを見る限りではミャンマー国軍の行動や国家ビジョンに一貫性が見えない。その時代で流行っている制度や思想を取り入れようとしているようにすら見える。

しかしそれは国軍が国家建設の理念を欠いていることを意味していない。国軍の理念を理解するために、まず彼らは独立のため常に外国と戦ってきたことを思い出してほしい。彼らの目的は「ミャンマー国民が主体となって国を建設すること」である。つまり彼らの根幹にはビルマナショナリズムが存在しているのだ。ミャンマーの統一と独立に役立つなら社会主義だろうが民主主義だろうが利用する。ナショナリズムが主体であり、イデオロギーは従属的なものであった。

ビルマナショナリズムとは具体的にはビルマ族を中心とした国造りであり、少数民族は後回し、時には排斥される傾向があった。植民地時代に非ビルマ系少数民族ばかりが植民地の軍人として優先して採用されたため、外国の手先というイメージもあったかもしれない。インド系、華人も「植民地時代にやってきた英国の手先でビルマ族の財産を奪う存在」として独立後排斥された。ナショナリズムには一般的に排外主義的な傾向が多かれ少なかれあるものだが、特にビルマナショナリズムには歴史的背景から外国嫌い、鎖国主義とでも言えるような志向が存在した。これは軍事政権だけでなくNLD政権になっても解決せず、ロヒンギャ問題や激化する国内の宗教対立の問題として今日まで残っている。

2章 アウンサンスーチーの失敗

2-1. アウンサンスーチーはなぜ支持されたのか

軍事政権から転じて、今度はアウンサンスーチー政権が何に失敗したのかについて論じていく。まずアウンサンスーチーはなぜミャンマー国民に広く支持されたのかについて簡単に説明しておきたい。

アウンサンスーチーの経歴であるが、彼女は人生のほとんどをミャンマーの外で過ごした。駐インド大使に就任した母親についてデリーに移住し、インドの大学を卒業、その後イギリスに留学して哲学、政治学の研究をした。成績はあまり芳しくなく、研究者としては芽が出ないものと思われていた。最終的にイギリス人のチベット史学者と結婚して専業主婦となった。
経歴を見れば分かるが彼女は本来政治活動とは無縁の存在であった。

アウンサンスーチーがミャンマー政治にかかわるようになったのは全くの偶然であった。1988年、彼女の母親が危篤でアウンサンスーチーは30年ぶりにミャンマーに帰国した。当時ミャンマーでは民主化運動が盛んで、「アウンサンの娘」がミャンマーに来ていると聞いた活動家たちはアウンサンスーチーに演説を依頼し、彼女もまた期待に応えた。この偶然の邂逅が彼女が民主化運動にかかわるきっかけであった。

これもまた歴史の偶然であったが、アウンサンスーチーは人々の心に訴えかける演説が上手かった。なにより「建国の父であるアウンサンの娘」である。アウンサンスーチーは欧州式の教育を受けた市民民主主義者であることは間違いないが、学部時代に政治学を学んだ程度の一般人だった。彼女の演説は英語のものとビルマ語のものがあり、とくにビルマ語の演説の方は具体的な国家像があったというよりは観念的な理想論が多く、実現性のある政策を欠いていることが多かった。しかしミャンマー国民、特にビルマ族の人々は彼女が「アウンサンの娘」であることから支持したのだ。アウンサンスーチーの思想と一般的なミャンマー国民が彼女に寄せる期待とのズレが民主化運動のころからあり、それがのちにNLD政権による国造りの足枷となった。

2-2. ポピュリストとしてのアウンサンスーチー

ポピュリズムという言葉がある。ポピュリズムとは、市民を「腐敗した一部のエリート」と「無垢な大衆」に分けて、我々はエリートに抑圧される大衆の権利を守ると市民に訴えかける政治手法だ。民主主義体制であるにもかかわらず政治権力が特定の集団に独占されており、市民の自由な政治参加が阻害されている国ほどこのポピュリズムの手法が浸透しやすい。典型例がハンガリーのオルバン、トルコのエルドアン、フィリピンのドゥテルテなどだ。

アウンサンスーチー率いるNLDは当初からポピュリズム的な性格を持っていた。実際に政治権力は国軍に独占され、経済成長で一番利益を受けていたのは国軍関連企業であった。市民の生活は困窮しており軍に対する不満が社会に蔓延していた。このような状態でポピュリズム的手法に訴えかける政治家、政治団体が現れたらどうなるか火を見るよりも明らかだろう。

1988年時点でのアウンサンスーチーはあくまで国軍との和解を訴えていた。しかし彼女はNLDの活動にかかわる中で徐々に軍に対する強硬派となっていった。理不尽な軟禁生活や軍による市民弾圧などを鑑みたら当然ではあるが、彼女以外にNLDの中で「国軍と協力しよう」と提言できそうな人はいなかった。国軍と一度は妥協して新しいミャンマーの体制に加わると宣言したにもかかわらず、NLDに国軍との協力を促せなかった責任がアウンサンスーチーにあるのではないかと筆者は考えている。

2-3. 残された格差問題

さてポピュリズムの何が問題なのか。ポピュリズムは前提として「無垢な一般大衆」を想定している。市民を「腐敗したエリート」と「無垢な一般大衆」に分けるのだが、様々な事情により「無垢な一般大衆」に含まれなかった市民が発生してしまう。「無垢な一般大衆」の一体感を強調するため全体主義的でかつ権威主義的な性格を帯びるし、時にはポピュリズム運動で生まれた体制が全体主義体制そのものに変質することも多々ある。ムッソリーニやヒトラーなどもポピュリズム運動の結果生まれた全体主義体制ということもできる。

話が脱線したが、NLD政権はその性質上当初からポピュリズム的な要素を備えていた。NLD政権は国軍に負けず劣らず「ビルマ族中心主義」の政権であった。民政移管後、ミャンマーは目覚ましい経済成長を遂げたが、国内の多くの少数民族にその恩恵は行き渡らなかった。少数民族が暮らす州はアウンサンスーチー政権になっても貧しいままだった。民政移管後のミャンマーは小選挙区制を採用したため少数民族政党にとっては不利で、マイノリティの意思が反映されにくい構造があり、少数民族武装勢力の中央政府に対する不満はむしろ高まった。

政治的にはNLD政権にとって都合のいい人事が横行した。民政移管後テインセイン政権のもとで進んでいた少数民族武装勢力との和解は、アウンサンスーチー政権になってから停滞した。しかし国民(ビルマ族)の絶大な支持を得ていることに自信をつけたNLD政権は国軍や武装勢力に対する強硬路線をやめることができなかった。ポピュリズム的な運動により政権に就いたがために、国内の深刻な分断に気付くことができなかったのだ。

3章 「民主化」とは何だったのか

3-1. ミャンマーにおける民主化運動

独立後のミャンマーの歴史は「文民政権が行き詰まる→クーデターで軍事政権が成立する→民政移管が行われる→文民政権が行き詰まり再びクーデターが起こる」の繰り返しだ。2021年クーデターもその「文民政権の行き詰まり」と国軍が判断したことにより起こった事件だった。

今回のクーデターに至るまでの経緯をこのミャンマーの歴史の枠組みを用いて簡単に解説する。

時は遡って1988年、親軍政党による社会主義体制は行き詰まっていた。インフレと度重なる理不尽なデノミ政策、市民の抑圧、国軍の腐敗により市民の不満が爆発し、全国規模の民主化要求運動となった。これは「8888民主化運動」と呼ばれる。国軍は民主化運動を弾圧するが、独裁者であったネ・ウィンは退陣に追い込まれた。「文民政権の行き詰まり」の段階である。

当時は世界中の権威主義体制国家で民主化運動が起こっていた時代であった。「8888民主化運動」もまた海外の民主化運動の流れを受けて起こったものと考えることもできるだろう。しかし国軍は歴史的な経緯から海外による介入を嫌った。実態はともかくとしてこの民主化運動も「外国による扇動」とみなした。独裁者ネ・ウィンは退陣して後継者に指導者の地位を譲ったが、退任する際に「軍は騒乱を起こすものに銃口を向ける」という警告を残した。辞任から2か月後、国軍は親軍政権に対するクーデターを起こし、憲法を廃止して軍事政権を築いた。「クーデターで軍事政権が成立する」の段階である。

軍事政権は当初文民政権への移管を約束していた。アウンサンスーチーは民主化運動をとりまとめて総選挙に参加するためにNLD(国民民主連盟)を結成した。選挙の結果、NLDが圧勝するが国軍はこの結果を認めず、アウンサンスーチーやNLDの指導者を拘束した。国軍はNLDに対する弾圧を強化した。民政移管を拒否したことにより軍事政権は当初国軍が想定していたよりも長く続いてしまうことになる。

3-2. お飾りの民主化

2007年にテインセインが軍事政権首相に就任したことで「軍事政権からの民政移管」の段階にこの国は進むことになる。軍事政権は天然ガス収入のおかげで財政が安定するようになっていたが国内は経済的に干上がっていた。テインセインは軍人であるが改革派であった。経済成長のためには民主化を進めなければならないと判断し、少しずつ国民投票などの制度を整えていく。2011年には憲法を制定して総選挙を実施し、テインセイン率いる親軍政党が政権を握った。政権発足後、自宅軟禁されていたアウンサンスーチーを解放しNLDを政党として登録した。

国軍のクーデターから23年、新しい憲法が制定されてようやく民政移管が実現した。アウンサンスーチー政権もこのミャンマー2011年憲法の枠組みの中で成立した政権である。テインセイン政権になってから制裁が解除され、海外からの投資が増えて高い経済成長が実現した。

2016年に総選挙があり、アウンサンスーチー率いるNLD政権が与党となった。過去に選挙結果を反故にした実績があるため政権移行が不安視されていたが問題なく新政権への移行が進んだ。NLD政権下でも概ね高度成長を達成しており、課題はあるものの安定した民主国家として生まれ変わることができたように誰もが思っていた。

しかしこの軍主導の「民主化」はお飾りの民主化であった。2011年憲法は多くの国軍の特権を特権を保証していた。連邦議会の議席の25%は軍人に割り当てられており、たとえ残りの議席をNLDが確保していたとしても国軍議席から造反者を出さない限りは憲法の改正ができない仕組みになっていた。アウンサンスーチーおよびNLDはこの2011年憲法の改正を目指していた。

3-3. なぜクーデターは起こったのか

NLD政権樹立後、アウンサンスーチーは国家顧問に就任した。2011年ミャンマー憲法では配偶者に外国人がいる者の大統領就任を禁じていた。そこで事実上大統領の上に立つポストを新たに創設することでアウンサンスーチーは国家元首に就任したのだ。

当然これは憲法違反ではないかという声があがったが、NLDの圧倒的支持により可決された。

いくら軍が軍に有利になるように決めた憲法だからといってこれは挑戦的な行為であった。国民の支持があるからといって例えば自民党が「国家総統」というポジションを新設して総理大臣や天皇の上に立つ権限を与えたら非常に良くないことくらい誰でも分かるはずだ。

NLD政権は初手で必ずしも憲法違反とは言い切れないが、憲法を無視するような行為に手を染めてしまった。これがNLD政権と国軍の最初の対立の原因となる。ある意味では、この頃すでにクーデターが起こるのは決まっていたのかもしれない。

もう終わってしまったことではあるが、ここでアウンサンスーチーが妥協してあくまで議員として国軍とNLDが交渉していれば対話の道はあったし、長い道のりではあるがいつか国軍に有利な2011年憲法も改正できたかもしれない。しかし選挙結果で自信をつけたNLD政権は自信過剰になってしまったのだ。NLD政権は国軍と最初から距離があった。

国軍と距離が生まれるとどうなるか。ミャンマーは国内に多数の武装勢力を抱えている。独立以来彼らと戦ってきたのは国軍であった。政権交代により少数民族武装勢力との対話はNLD政権が主体で行うことになったが、国軍との連携が取れていないため和平交渉は停滞した。経済的にも政治的にも少数民族は取り残されたためむしろ親軍政権時代よりも武力対立が増えた。特にロヒンギャ問題は深刻で、ミャンマー国民の間でも反ロヒンギャ感情が根強いため、アウンサンスーチー政権は難しい選択を迫られた。国軍とは違って国民により支持されてしまったからこそロヒンギャ問題で柔軟な対応が取れなかった。このあたりの経緯は複雑で中公新書の『ロヒンギャ危機』に詳しく書かれている。

民政移管により政治犯が釈放されたが、これによりナショナリズムを煽る僧侶なども釈放された。言論の自由が保証されていたので僧侶の中には反イスラーム感情を煽る発言や演説を繰り返す人もいた。スマホとSNSが庶民の間に普及した結果、宗教対立が年々増加する傾向にあった。少数民族勢力の離反や増え続ける宗教対立は国軍のNLD政権に対する不信感を強めた。実態はともあれ、国軍としてはNLD政権は統率力がなく国内が行き詰まりつつあるように見えた。国軍は「文民政権の行き詰まり」と判断しクーデターを考えるようになっていった。

最後にクーデターの直接のきっかけについて説明する。2020年11月8日に実施された総選挙でNLDは前回を上回る議席を獲得した。この結果を受けて野党であった親軍政党と国軍は不正選挙であると調査を求めた。実際に少数民族地域では治安を理由として選挙自体が取りやめとなり、またラカイン州のロヒンギャも選挙権が認められていなかった。国軍のミン・アウン・フラインが大統領職に野心を示しており、周囲の側近も彼に都合のいい情報を吹き込んでいたというものもあるが、完全に不備のない選挙とは言い難く、国軍側に選挙の公正性に疑念を抱かせる隙をNLD政権は与えてしまったのだ。

2021年1月、与野党間で話し合いが行われた。国軍は選挙結果の再集計と議会の延期を求め、応じない場合はクーデターに出ることを示唆した。一方でNLD側は再集計の要求を拒絶したのだ。この拒絶がきっかけとなって2021年2月1日のクーデターにつながった。

完全に国軍による思い込みと言いがかりでしかないのだが、NLD政権は国軍がまさか本当にクーデターに踏み込むとは思っておらず、それ故にこれまで通り強硬路線を貫き国軍の選挙結果再調査の要求を拒んだのだ。

しかしNLD側は1988年のように国軍は実力行使を警告したら本当に実力行使を実行する組織であるという認識が欠けていた。また仮に強硬路線を貫いたとしてNLD側には国軍の実力行使を防ぐ手段を所持していなかった。つまりクーデターが起こったらすべてが終わる状況であったにもかかわらず国軍との対話を拒絶したのだった。悪いのは国軍であるが、こうした見通しの甘さがNLD政権側には当初から目立っていた。NLDの国軍とのコミュニケーション不全がこの国の民主化を頓挫させてしまった側面は否定できない。

NLDだけでなく国軍も楽天的だった。1988年と同じように権力を掌握して「治安を回復」して再び親軍政党の文民政権を樹立する自信があったようだ。しかし実際は全国規模で反乱が頻発している。軍事政権を倒すほどの勢いはないとはいえ、国軍に対する不満が社会に蔓延し、反国軍運動は収まる気配が見えない。経済は停滞し市民は困窮している。NLDも国軍も互いの話を聞かず、互いに「なんとかなるだろう」という楽天的な見通しをやめることができなかった。その結果が今回のクーデターだ。2007年ごろから始まったテインセインのもとでの「民主化」の試みは完全に失敗してしまった。

余談であるが東南アジアとかかわるとこうした詰めが甘いわりに妙に自信家な組織や人間をよく見る。ある意味おおらかでとても東南アジアらしいのだが、最悪な結果となってしまったのが今回のクーデターであろう。

4章 ミャンマーの未来

4-1. 未完の国家統一

英領ビルマ時代の官僚であり、研究者でもあったJ.S.ファーニヴァルは東南アジア植民地社会を「複合社会」と評した。複合社会とは「同一の政治単位のもとに異なる社会集団が分離したまま併存し、混在するが融合することはない社会」のことである。複合社会では「共通の社会的意思」と呼べるものが存在せず、国民として共通の立場がないため、各集団が自己の立場に固執して、ほかの社会集団の立場を理解せず、市民の統合に大きな障害になるというのがファーニヴァルの論だ。

複合社会論については賛否両論あるが、東南アジア社会を論じるうえで今でも避けられない概念である。植民地時代のミャンマーもまた、ファーニヴァルの指摘するところの複合社会であった。共通の国民アイデンティティが生まれにくい社会における民主主義の導入は最初から大きなハンデを背負っていた。

植民地型複合社会から国民の統合を実現して民主主義の導入に成功した国もある。マレーシア、インドネシア、フィリピンなどがそうだ。しかしミャンマーに関して言えば、複合社会から脱出して統一された「ミャンマー国民」を創出する段階で失敗していると言わざるを得ない。そもそも「ミャンマー国民」どころか少数民族の分離派を今でも多く抱えているミャンマーは国家の統一すら現状としては未完の状態である。

そのような国でビルマ族や都市部の住民にとってのみ都合のいい「民主化」を導入したところで、開発から取り残された地方や少数民族、宗教的マイノリティとの溝は深まるばかりなのだ。この国は植民地時代の複合社会を克服できていないまま、そしておそらく国軍もアウンサンスーチーNLD政権もそれを理解しないまま独善的な「民主化」を推し進めた。その結果が2021年のクーデターである。アウンサンスーチー政権はポピュリスト化し、統治は機能不全に陥りつつあった。

国軍のクーデターを肯定しているわけではない。むしろクーデターはミャンマー民主化の失敗を決定的なものにしてしまっただろう。かといって民主派に国家を統一するような力はない。国軍の力なしでミャンマーの統一は不可能なのだ。しかしミャンマー市民と国軍の溝は深まる一方である。ビルマ族と少数民族間の相互不信、宗教間の相互不信、外国人に対する不信なども解消される気配がない。

国軍はミャンマーがかつてのユーゴスラビアのように空中分解し、国中で血で血を洗う争いに発展することを防いできた。しかし彼らの精神はあくまでビルマ族のための国軍であった。少数民族は包摂されることなく、国家の統一は未完のまま現代まで解決されていないのだ。

4-2. クーデター後のミャンマー

クーデターの結果ミャンマーは事実上の内戦状態に陥った。民主派の代表を主張するNUGは非暴力路線を諦めた。国民に軍に対する抵抗を求めているが、軍の力は圧倒的であり、国軍政府を転覆するような力を持っていない。少数民族武装勢力も国軍と直接対峙することを避けたい組織がほとんどだ。状況としては国軍が有利であるが、一方でアウンサンスーチーという指導者を失っているにもかかわらず軍政に対する攻撃はミャンマー各地で散発しており収まる気配がない。民主派に国軍を倒して新政権を樹立する力はないが、かといって国軍も1988年と同じようなやり方で民衆の不満を抑え込むには限界がある。

ミャンマーは今後どうなるのだろうか。『ミャンマー現代史』の著者中西嘉宏氏によると考えられるシナリオとしては3つのパターンがある。

①国軍が約束通り2023年8月に総選挙を実施する
②2023年8月の総選挙が実施できず軍事政権が長期化してしまう
③軍と抵抗勢力の間の和解の成立

①のシナリオだが、これは国軍が国内治安の抑え込みに成功して8月までに選挙が実施できる状態にすることが条件である。国軍は2023年に選挙を実施して文民政権に移行することを約束している。もちろんアウンサンスーチーの公民権は停止されており、NLDの選挙参加は認められないため、親軍政党の政権ができるだろう。おそらく国軍最高指導者のミンアウンフラインは政党のトップに天下りして大統領に就任することを望むだろう。

②のシナリオは1990年のように軍事政権が長期化してしまうことだ。抵抗勢力が沈静化せず軍事政権は選挙の実施を躊躇う。国軍政権はあくまで(親軍の)文民統治を望んでおり、国軍による独裁をやりたがっているわけではない。しかし選挙が実施できない状況が続くと国軍の意思に反して軍に権力が集中した状態が長続きすることになる。かつての軍事政権時代のように国際収支は悪化し、物価は高騰、国民の生活は困窮を極めていくだろう。経済的な不安は政治に対する不満となり反軍活動はさらに拡大する。1990年軍事政権の悪循環が再び繰り返されることになる。個人的にはこのシナリオのように事態が進む可能性が高いと考えている。

③はミャンマーにとっても世界にとっても最も幸運なシナリオである。しかし最も困難な道のりである。抵抗勢力や国際的な圧力が国軍政府の行動指針を変えなければならないが、それと同時にNLD側にも何らかの妥協が必要となる。少なくとも2020年選挙の無効とやり直しを受け入れることは不可避であろう。現状としては国軍もNUGはじめとする反国軍勢力も互いをテロリストと呼び罵り合っている。仮にこのシナリオが成立したとしても5年10年と多くの時間を費やすことが必要になるだろう。

4-3.民主派を支持することは正しいのか

前節でも書いたが現状は国軍が圧倒的有利である。ミャンマーという国が今後どうなるかは良くも悪くも国軍がどう動くかに関わっている。民主派には残念ながら国軍政権を倒し国内をまとめ上げるような力はない(そもそもNLD政権時代少数民族武装勢力との対話に失敗してる時点で仮に軍から政権を奪えたところで地方の状況が改善されないのは予想つくであろう)

民主派を積極的に支援することは国軍との対立を長引かせることでもある。つまり良かれと思って抵抗運動を支援することで「軍事政権」が国軍の意思に反して長期化するのだ。前節②のシナリオに進むこととなる。その先にあるのは市民生活の困窮である。ミャンマーが国際的に孤立することで中国やロシアの介入も深まるであろう。西側企業撤退の結果、市民は職を失い、中国企業が劣悪な労働条件でミャンマー国民を買い叩く、これが現在起こりつつあることである。

4-4. ミャンマーとどう関わるべきか

西側諸国がやるべきことは3つだ。まず国軍と反国軍勢力の対話を促すこと。また、反国軍勢力の支援をするべきではない。あくまで対話の呼びかけである。仮に国軍政権が崩壊したとしても反国軍勢力が国家を統一する望みは薄い。むしろミャンマーは東南アジアのユーゴスラビアと化して泥沼の紛争と国家の崩壊に繋がるだろう。第二にミャンマー一般市民の生活の支援だろう。しかし国軍はNGOなどの活動を「外国による介入」と捉えがちであり、個人でできることには限りがあるだろう。政府による支援が必要だ。日本政府が人道支援に積極的に力を入れていく必要がある。第三にミャンマーを国際的に孤立させないことである。そのためには国軍の要求を受け入れることも選択肢に入れるべきだろう。この国の民主化の試みは失敗してしまったという現実を受け入れるべきだ。
ミャンマーに必要なことは民主主義だろうか。この国は国家の統一すら満足に実現できていない。そのような国に形だけ「民主主義」を持ち込んだ結果が2021年クーデターなのではないだろうか。ミャンマーには根深い相互不信が染み付いている。国軍と市民、ビルマ族と少数民族、仏教徒とムスリムなど。まず国民の生活を安定させ、長い歴史の中で染み付いてしまった相互不信を解いていかなければ形だけの民主主義を取り入れたところでまた失敗するだろう。「文民政権が行き詰まる→クーデターで軍事政権が成立する→民政移管が行われる→文民政権が行き詰まり再びクーデターが起こる」という独立以来繰り返される歴史は終わらないのだ。
ミャンマーを真の民主国家として生まれ変わらせたいならまず国軍との紛争を止めるよう促すべきだ。国軍も少数民族含めて反政府勢力との対話を続けるべきだし、もっと言うと外国不信も治していくべきなのだろう。この不信感はミャンマーの歴史に深く根ざしたものであり、一朝一夕に変えられるものではない。粘り強くミャンマー国内のあらゆる勢力と関わりを持ち対話を促していかなければならないのだ。

参考文献 ミャンマーを知るために

『ミャンマー現代史』
『ミャンマー 「民主化」を問い直す ポピュリズムを越えて』
『ロヒンギャ危機』
『物語 ビルマの歴史 - 王朝時代から現代まで』
『ビルマ 危機の本質』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?