カンボジア現代史① ポル・ポトって誰だよ
カンボジア現代史 ポル・ポトとは何者だったのか
はじめに
この記事はポルポトとは何者なのか、カンボジア史、そして世界史の中でどのような役割を果たしたのかについて論じています。とにかく長いです。ひとつの記事にまとめようとしましたがあまりにも長いので諦めました。緩く連載していきます。
ポルポトについて改めて説明すると、経緯が複雑でカンボジア国内だけでなく多くの国々が関わってきます。
忙しい人向けに結論を書くと、ポルポトとは現代カンボジア国家の成り立ちに深くかかわっている人物です。現代カンボジア社会の抱える問題を知るために避けて通れません。
全部読まなくても構いませんのではじめにだけ読んでください。
ポルポトはカンボジアの旧体制を破壊して新しい秩序を築こうとしました。破壊の爪痕はカンボジア各地に生々しく残っています。
半世紀近く続いた内戦を乗り越え、カンボジアは新しい国造りに向けて動き出したばかりです。近年は企業の進出も進み大きな成長を遂げています。ビジネスや観光で多くの日本人がカンボジアを訪れるようになりました。ですが、カンボジア社会は今でも多くの困難に直面しており、諸外国からの支援が必要です。
近年の経済成長でカンボジアは後発開発途上国から脱することができました。しかし地方ではいまでも多くの国民が1日2ドル未満で暮らしています。大卒がもらえる給料が月に4~5万円で、一般的な工場労働者の収入は2~3万円です。給料は少しずつ上がっていますが、物価の上昇も激しく庶民の暮らしは非常に厳しいです。定職に就いておらず、零細自営業の不安定な収入や海外出稼ぎ労働者からの送金に頼っている世帯も多くあります。脆弱な社会インフラはときに災害となり多くの人の命を今でも不条理に奪っています。
500円でも1000円でも構わないので寄付をお願いします。毎月1000円寄付していただくだけでも大きな助けになります。ポルポトについて知らなくてもいいのでカンボジアを助けてください。
https://www.plan-international.jp/about/country/cop_camb.html
https://www.worldvision.jp/children/poverty_02.html
ちなみにこんな感じの構成で書こうと思っています。まあ、長すぎるので変わるかも。今日は序章だけ書きます。
「カンボジア現代史 -ポル・ポトとは何者だったのか-」
目次
序章「ポル・ポトって誰だよ」
・この文章を書くに至った動機 問題意識
・章構成紹介
・主な登場人物(国)
・カンボジア基礎知識
第1章 前史
1−1.クメール王国の衰退
1−2.すべての元凶 フランス植民地支配
1−3.カンボジア王国の独立
第2章 クメールルージュの誕生
2−1.クメール・ベトミン 誕生
2−2.ポルポトの野望
2−3.クーデター そしてパンドラの箱は開けられた
第3章 政変 民主カンプチア
3−1.呉越同舟 それは北京から始まった
3−2.プノンペン陥落
3−3.国家大改造 クメールルージュの夢
第4章 ポルポトの落日
4−1.東部管区の反乱 ベトナムの侵攻
4−2.内戦 カンプチア人民共和国 VS 民主カンプチア連合
4−3.和解と王政復古
4−4.ポルポトの最後
終章 ポルポトとは何者だったのか
1.ポルポトの人物像
2.クメールルージュが目指したもの
3.結論 カンボジアの大虐殺は誰に責任があるのか
序章「ポル・ポトって誰だよ」
0-1.この文章を書くに至った動機 問題意識
0-1-1. 導入 昔話
昔々あるところに、ツイッター論客がいました。論客は得意のトウケイ術と呼ばれる秘伝の術で民を惑わし、特定の人種に恨みを溜め込んでいる人々から慕われていました。
いつものように論争に明け暮れていたところ、一生懸命考えた自慢の未婚者削減政策に「ポル・ポトかよ」とケチをつけてくるやからがいました。論客は腹が立ってこう返しました。
論客は非モテでした。外国人の名前でマウントを取ってくる論敵が何よりも嫌いでした。今回もまたアンチがバタくさい意見をぶつけてきたよ、みんなポル・ポトなんてしらねぇよなあ、論客はそうフォロワーに呼びかけたのでした。
ところがそのときのタイムラインの反応はいつもと違いました。論敵だけでなく、普段論客のことを慕っていた人たちからも「オイオイまじかよ」という声が出ているではありませんか。
そう、ポル・ポトは有名人だったのです。彼の名はスターリンや毛沢東と並び、最も自国民を虐殺した共産主義諸国の暴君として知れ渡っており、日本だけでなく世界中で恐れられていました。社会を語る論客が社会を知らないのは致命的です。カンボジアについてよく知らない人でもキリングフィールドという言葉と凄惨な拷問の数々や、国中に埋められた地雷で今でも子供たちが傷付いていることくらいは知っていました。
論客はここで自分の無知を反省すればよかったものの、
「キリングフィールドというまた知らない単語…」
「ポルポトマウント祭り」
「俺は統計的事実を示しただけで女を低学歴にしろなんて主張したことはない」
「ポルポトを知ってるかどうかなんて関係ないじゃないか」
など火に油を注ぐ発言を繰り返しました。騒動はますます大きくなり、普段彼と絡みのないネット論客も参戦して炎上してしまったのです。
0-1-2. それで、ポル・ポトって結局誰だよ
2020年1月、世間が迫りくる新型コロナウイルスの不安に戸惑っていたころ、筆者もこの騒動を眺めていた。ポル・ポトを知らないことにも驚いたが、まず「ポル・ポトって誰だよ」と反射的に返してしまったのがよくなかった。その致命的なミスは誰の目にも明らかだし、ツイッターに棲息する無数のネットピラニアたちの餌食になるのは当然といえる。本人は純粋に知識がなかったことで馬鹿にされたと思っているようだが。
この騒動で筆者がもうひとつ印象に残ったのが、ポル・ポトの悪名がこれほど多くの人に知れ渡っていることだ。海外についてあまり関心ない人でもポル・ポトの名前くらいは知っている。カンボジアのイメージについて聞くとアンコールワットとポル・ポトによる虐殺のふたつが返ってくるだろう。
高校世界史はカンボジアについてあまり多くを触れないが、ポル・ポト時代の虐殺は常軌を逸したものであり、たびたびメディアで特集が組まれてきた。『キリングフィールド』というポル・ポト政権下のカンボジアから脱出したジャーナリストのドキュメンタリー映画はカンボジア大虐殺を扱った映画としては古典となっている。
さて、大虐殺で有名なポル・ポトであるが、世間の人はどれくらいポル・ポトについて知っているだろうか。
メガネをかけているものや手が綺麗なものはインテリでありブルジョワだから処刑したとか、おぞましい拷問とか、もはや誰のものだったのかも分からなくなってしまった人骨の山とか、目を覆いたくなる悪行の数々は今更語るまでもないだろう。
少し関心のある人なら、ある特定の年代より上の人口が極端に少なくなっているカンボジアの特徴的な人口ピラミッドを見たことがあるかもしれない。
つまり世間の人はポル・ポトの名前と彼がやったこと、そしてカンボジアに少し関心のある人なら現地社会にもたらした影響くらいまでは把握している。
では、それはどれほど「ポル・ポトについて知っている」と言えるのだろうか。
実はポル・ポト、そしてカンボジアの現代史は難しい。
「カンボジアでポル・ポトが大虐殺を行って現地社会が破壊された」という事実は皆が把握しているが、彼がいかにしてクメールルージュのトップになったのか、なぜ、そしてどのようにクメールルージュはカンボジアという国を乗っ取ったのか、なぜカンボジアの大虐殺は起こってしまったのか、なぜポル・ポトは権力の座から降ろされてしまったのかを説明できる人はほとんどいないのではないだろうか。
登場人物、登場国家があまりにも多く、複雑に絡み合っている。少なくともまともに説明しようとしたらフランス植民地時代までさかのぼる必要がある。把握しなければならない期間も長い。大長編の小説と向き合うくらいの覚悟が必要だ。
ポル・ポトが何をやったのかははっきりしているが、なぜ大虐殺が起こってしまったのかを説明するには、物語が複雑で理解が難しいのだ。
しかし、歴史的事実を知っているだけでは歴史を理解したことにはならない。「ポル・ポトという人物がいて、大虐殺を行って、社会を破壊した」という事実を知っているだけの状態はポル・ポトについて何も知識がない状態とどれくらい差があるというのだろう。
導入で紹介したツイッター論客に「ポル・ポトって誰だよ」と問われて、なぜポル・ポトは最も有名な虐殺者のひとりとして数えられているのかを説明できないのなら、それはポル・ポトについて理解しているとは言えないのではないだろうか。
そして日本人の多くはポル・ポトについて知っていても理解はしていない側だろう。実際件の論客氏もポル・ポトについて知っている人からの攻撃はたくさん受けた。だがなぜポル・ポトを知らないのが衝撃なのか、なぜポル・ポトが現代カンボジアそして現代社会を語る上で重要な人物なのかを説明する人はほぼいなかったので、ことの重大さを理解できなかったのではないか。
カンボジアは多くの日本人が観光で訪れる国である。日系企業の進出で日本とカンボジアの関係は深まるばかりだ。
カンボジア国民が過去にどのような経験をして、どのような問題を抱えているのかを知ることは両国の交流の深化に不可欠である。
なぜポル・ポトは生まれたのか、どのようにカンボジアの人々に深い傷を残してしまったのかを理解することで、カンボジア社会の見え方も変わってくるであろう。 以上が筆者の問題意識であり、この記事を書くに至った動機である。
この記事ではカンボジアになぜクメールルージュとポルポトが生まれたのか、なぜ彼らが権力を奪うことができたのか、なぜ虐殺は起こってしまったのか、なぜポルポトの時代は終わってしまったのか、結局ポルポトとは何者だったのかをフランス植民地時代まで遡り、国際関係史を中心にして解説していく。この記事が日本人のカンボジア理解の助けになることを願っている。
0-2.章構成
ではこの記事の全体の流れを説明していく。第1章ではクメール王国が衰退し、フランスの植民地支配を受け、再びカンボジア王国として独立するまでの流れを簡単に説明する。なぜなら全ての始まりはフランスによる植民地支配であり、その背景知識がなければどうしてクメールルージュがカンボジアで生まれたのかを理解できないからである。大虐殺の種はこの時期に撒かれ、長い時間をかけてすこしずつ大きくなっていったのである。
第2章ではクメールルージュが誕生し、組織内でポルポトが実権を握っていく過程と、クーデターでシハヌーク国王が追放されるまでの流れを解説する。
第3章ではクーデター後のカンボジアでポルポトが政権を奪い新しい国家を作っていく過程を書いていく。ここでややこしいのが、追放されたシハヌーク国王がクメールルージュと手を組んで共産主義政権の国家元首となったことだ。追放されたのちに再び国王になった人もいるが、名目上とはいえ共産主義政権の国家元首となったのは彼くらいだろう。
第4章ではクメールルージュ政権の崩壊からカンボジア内戦、王政復古からポルポトの最後までを書く。
先ほどのシハヌーク国王であるが、クメールルージュ政権が倒れた後に親ベトナム政権ができるが、そのとき反政府勢力のリーダーのひとりにもなった。そしてカンボジア内戦が終結してなぜか国王に返り咲いているややこしい人物だ。だが彼はカンボジア現代史とともに歩んできた人物であり、 彼の動きを知ることで現代カンボジアの理解がより深まる。
終章ではポルポトとは結局何者だったのかを論じる。彼の人物像、クメールルージュの目指したもの、そしてカンボジアの大虐殺はなぜ起こってしまったのか、だれに責任があるのかを筆者なりに論じていく。
0-3.主な登場人物
カンボジア:この物語一番の被害者である。古代東南アジア随一の大国としてインドシナ半島一帯に覇権を築いていたが、周辺国の侵略を受け続け、フランスによって植民地化される頃には見る影もなくなってしまった。基本的にいつもいじめられている。
タイ:加害者その1である。東南アジア内では新参者の王国であり、西側からカンボジアをいじめ続けてきた。アンコールワットの観光拠点であるシェムリアップとは「タイ(シャム)を追い出す」という意味だそうな。
ベトナム:加害者その2である。東側から国境をジワジワと削っていった。現在のホーチミンシティがある一帯は、もともとはクメール人の勢力圏であった。フランス植民地となってからは宗主国の手先としてカンボジアから搾取を行い、主にカンボジアの農民の間で反ベトナム感情が浸透した。
フランス:言うまでもなくすべての元凶である。フランスなりに植民地の開発を頑張ったつもりのようだが、ベトナム人にラオスやカンボジアの管理を任せて反ベトナム感情を育てたのはこいつであり、のちの内戦やカンボジア大虐殺の舞台をせっせと整えた張本人と言えよう。
日本:お利口ぶっているが、解放を名目に侵略を行い東南アジアの秩序を破壊したのはこいつである。宗主国を追い出すことに成功したが、新しい秩序を形成するほどの力はなく、東南アジア一帯に力の空白が生まれ、戦後の戦乱の原因となった。それでいてアメリカの庇護下で平和主義を気取っているクズである。
アメリカ:WWⅡに勝ってしまったがために自由主義陣営の盟主となり、世界の秩序維持の役目を押し付けられた。巨悪、加害者として語られることが多いが、世界大戦後のアメリカの戦争は、列強諸国による植民地支配崩壊の尻拭いの側面も多い。ベトナム戦争もフランスが脱植民地化の軟着陸に失敗してしまったことが巻き込まれた原因である。ただ、被害者側か加害者側か問われたら後者である。カンボジアに親米傀儡政権立てたり、共産主義者攻撃のために農村を爆撃したりなど、思い込みの強い熱血漢タイプで、善意で加害してくる。一番厄介である。
中国:クメールルージュ最大の支援者であり育ての親と言える。当時はベトナムやソ連と対立しており、生き残るために狡猾に立ち回る。ベトナムやソ連に対抗するためクメールルージュ政権に武器を提供した。また、カンボジアから食糧を大量輸入したため、農村部の飢餓の原因を作った。大虐殺のお膳立てをした国と言える。というか本人も自国民を虐殺しているサイコパスである。
ソ連:カンボジアへの直接的な介入はしてこないが、ベトナムを支援してカンボジア内戦長期化の原因を作った。カンボジア内戦はソ連と中国の代理戦争としての側面もあった。冷戦の終結、ソ連の崩壊によってカンボジア内戦が終結したと言っても過言ではなく、無関係な国ではない。
0-4.カンボジア基礎知識 インドシナ半島南部に位置する立憲君主制国家。2020年時点での人口は1600万人を超えている。 国民の9割はクメール人であり、残りはベトナム系、華人、チャム人などの少数民族である。なぜか Wikipediaのカンボジアの国民の項目に「猫ひろし」を記載することに情熱をかけている人がいる。余談であるが、猫ひろし氏はたびたびカンボジア大使館開催のイベントにもゲストとして呼ばれており、意外と日本カンボジア関係に貢献している。
最大民族であるクメール人はクメール語を話す。クメール語はカンボジア語とも呼ばれ、カンボジア王国の公用語となっている。語族はモン・クメール語族で、隣のベトナム語とは遠い親戚の関係にある。
タイ、ラオス、ベトナムと国境を接していて、南西部はタイランド湾に面している。国の中央部にトンレサップ湖があり、メコン川の支流を形成する。トンレサップ湖は東南アジア最大の湖であり、100万人以上が水上生活を営んでいると言われる。
トンレサップ湖がもたらす豊かな水産資源と肥えた土地は古くからこの地に多くの人を引き寄せた。クメール人がこの地に最初の王国を建てたのは1世紀ごろであり、東西貿易の中継地としても栄えた。中国の歴史書では扶南や真臘などの名前で記録されている。
何度かの王朝の交代を経験し、周辺国からの侵略を受け続けながらも、クメール人はこの 土地に王国を維持し続け、独自の文化を守り続けてきた。 もともとはトンレサップ湖の北部に都があり、王国の中心地として栄えていた。現在ではアンコール遺跡群として知られている。
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