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forgive - 許すことの、本当の意味


最も心が豊かな場所、ラオス-バンビエン



どのくらいの人が、ラオスのバンビエンと言う場所を訪れたことがあるだろうか?

もしかしたらその場所は、わたしが今まで旅してきた場所の中で、「1番好きな場所」と言えるかもしれない。


2022年。
夫と東南アジアを旅していた時、ベトナム、カンボジア、タイを周り、10月末にラオスへと入国した。

首都ヴィエンチャンからラオス高速道路を走り約2時間、
ラオスの真ん中の山奥にバンビエンはある。

まさに「秘境」と呼ぶに相応しい、手付かずの美しい自然が広がるその場所は、孫悟空が筋斗雲に乗り空を悠々と駆け巡っていそうな、そんな世界だった。

ただ、わたしがなぜこんなにもバンビエンの虜になってしまったのかと言うと、その理由はそんな自然の雄大さだけではない。

何よりも心を奪われたのは、そこに暮らす子供達の姿だった。

バイクでバンビエンを移動していた私たち。
集落を走り抜ければ、必ず道端で遊ぶ子供たちが駆け寄って手を振って来た。

観光で訪れた寺院では、その入り口で遊んでいた女の子たちが私たちを見つけるとポーズをとり、ようこそ言わんばかりにお出迎えをしてくれる。

川遊びをしていた少年は、駆け寄って来て、にやりとピース。

こんなにも心の垣根を感じない場所が、他にあっただろうか。

中でも1番衝撃的だったのは、あの瞬間。
日暮れどき、街灯の少ないバンビエンの街がうっすらと夕闇に包まれてきた頃、私たちは市場へと夕食を調達しに歩いていた。

後ろから何人かの子供たちが私たちの元へ駆け寄ってきて、おもむろに手を差し出す。

これまでにベトナムとカンボジアを抜けてきた私たちは、ああ、きっとこれは"お金頂戴"か、"これ買って"だろうと予想した。

しかし、差し出されたその手に握られていたのは、少しのお小遣い。

「見て見て!これで今からお使いに行くんだ!」
とニカっと笑って楽しそうに私たちの横を走り抜けていく。

ラオ語のわからない私たちには、あの時あの少年がなんと言ったのかはわからなかったけど、なぜだかきっと、そういった気がした。

衝撃だった。
その辺を歩く見ず知らずの日本人に、そんなことをするだろうか?

世界で一番安全だと言われる日本でも、今そんな事をする子供がいるだろうか?

心がじんわりと、熱くなった。

与えられている、という強い実感があった。

forgiveの本当の意味

forgive、という英単語がある。
その言葉と出会ったのは一体いつだったか、高校で習ったのか、はたまた中学の時だったか。
その出会いは全く覚えていないけれど、その言葉の持つ本当の意味に胸を打たれたのはそれから十数年経ってからだった。

forgiveは、「許す」という意味を持つ。
I forgive you.
といえば、私はあなたを許すよ、という意味になる。

では何故、for + give で許すと言う意味になるのだろう?

一説によると、元々forgiveは、古英語のforgiefanに由来するらしい。
for(〜に対して)+ gifan(与える、贈る)

つまり、「誰かに対して与える」という事が、「許す」ことであるという事だ。

そして、この単語の頭に「for」という接頭辞が付くと、後ろにくる単語の意味を強める働きをすることがある。

giveを超えたgive。
本当の許しとは、惜しみなく、完全に与える、ということだ。

与えることを続ける、ということ。
過去に起きたことの全てを許し、その人との関係を続けることを選択する。
恨むのでもなく、妬むのでもなく、与える側になるという選択をするということ。
何があろうと、全てを与える、与え続けるということ。

その意味を心で理解したのはラオスだった。


許すことは、与えること

ラオスにて、バンビエンにて、そこで暮らす彼らと出会い、
わたしはあの2週間、ずっとじんわり心が熱かった。

なんで数分前に出会ったわたしたちに自分たちのお昼ご飯を分けてくれるんだろう。
なんでバイクで道を走っているだけで手を振ってくれるんだろう。
なんで言葉の通じないわたしたちに、にこにことラオ語で話しかけてくれるんだろう。
なんでたどたどしい英語でわたしたちと話そうとしてくれるんだろう。


名付けようもない、大きな何かを、私たちはずっと与えられていた。

「完全に与える」ということは、
目の前にいる人と、共に生きていくよ、と選択するということなのかもしれない。

forgive.
ラオスの人達は、それをまさに体現していたような気がする。




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