ショートエッセイ:グンマ―の生活 (13)バンカラ女子高生
うちの高校は公立女子高なんだが、校則らしい校則がなかった。
冬寒いのも手伝って、好き放題なかっこうをしていた。
校内でドテラを羽織っていた女子については前に書いたが(地学部、冬の夜、泊まり込みで流星群など観測していた)、冬は制服の上に白衣を羽織っている"白衣の天使"が多かった。メインは化学部の者たちだったが、美術部の者もいた。彼女たちは油絵を描くので、絵具で汚れないように、制服の上に白衣を羽織る習性があった。
彼女たちが校内のいろんな場所でイーゼルを広げて絵を描いていると、後ろから横から悪い友達がわらわらと寄ってきて、白衣にへのへのもへじなどを描いていった。それをそのまま着ていたので、先生とかは見てギョッとしてたわけだ。
防寒用コートというと、うちの高校のライバル高の県立T女子高校(T女と呼ぶ)の方々は、校則が厳しいので、揃いの紺のスクールコートを着込んで、揃いの黒の学生鞄を持って、黒い飾り気のないローファーを履いていた。
センター試験会場でT女の方々に会ったとき、お互いびっくりした。
私たちはというと、スタジャンやトレンチコート(私だ)等思い思いの防寒着を羽織り、制服の上着に缶バッジをつけ、足許はスニーカーが多かった。
両校の女子たちはお互いに囁き合った。
うちら「T女って地味ねぇ…」
向こう「M女って派手ねぇ…」
珍しく、お堅い先生がうちの高校に赴任してきて生徒の服装の余りの自由奔放さに絶望し、
「そうだ、風紀委員だったらまともな格好をしているに違いない」
と風紀委員に会ったらこれまた真っ赤な靴下を履いていて、えらく気落ちした、という話がある。
夏は暑い校舎なので、上履きの代わりにサンダルを履くことが許されていた。クリーム色とピンク色。大人しく買ったものを履いていればいいものを、クリーム色とピンク色を片方ずつ取り替えて履く、というのが流行ったのである。これを思いついたのは私だ。
こうして書くと、うちの高校はカブキ者かバサラ者の大集団みたいであるが、本人たちは至って真面目に自己表現としてお洒落をしていたのである。他人を気にせず、自分のしたいことをしていた。田舎の高校であり、男子の目がなかったことで、あんなことになった…けど。
また、高校側も実に寛容であった。きっちり勉強して成績さえ良ければ、パーマをかけようがピアスを開けようが、割とどうでも良かったのである。
例外として、修学旅行のときだけは、高校生らしい清楚な格好を要求された。校庭で服装チェックが実施され、私たちはその理不尽さにふくれっ面になって先生に反抗したものだった。普段着ているものを修学旅行に着て行って何が悪い。
しかし、私は抜け道を考え出した。禁止事項の中に缶バッジはなかったので、担任の先生と副担任の先生の似顔絵を描いて(副担任の先生は、漫研の友達に上手なのを描いてもらった)、クラス人数の缶バッジを作って貰い、それを制服に着けて奈良や京都を歩いた。
実は一寸ビビっていたのだが、間もなく
「外人のカップルが指さして笑ってたよ」
「向こうから来た人が缶バッジを見て怪訝な顔をしていたけど、後ろから担任と副担任の先生が並んでやってきたのを見て吹き出してたよ」
先生たちの間で「何だあの缶バッジは」と話題にはなったのだが、
「別に何か害があるでなし」
という意見が主流になり、お咎めなしになったという。
私の高校生活3年間、渾身のイタズラであった。
話が脱線した。
グンマーでは、うちの高校だけがこんな奇行の巣窟だったのではない。
隣のM高(男子高。グンマー一の進学校)には、私が在学当時には学ランに下駄を履いて登校する奴がいた。
20年ほどたってやっと理由が解った。昔の一高生のマネをしていたのである。
M高の校則はうちのよりユルくて、「通学には靴を用いる」という項目さえなかったのであった。
また、当時のT高の生徒会長がリーゼントにスカジャンを着て学校に来るという噂もあった。
中途半端な田舎ならではの文化かもしれないが、誰もが好きなものを好きなように着ていたあの頃が忘れられない。流行なんかつまらない。