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「生きることを見抜いた」 芦田愛菜という、16歳の哲学者

僕はドラマ「Mother」の頃から、芦田愛菜ちゃんの大ファンだった。

彼女が小さい時からずっと、子役ではなく「すごい女優さんだ」と思って見ていたし、彼女がとんでもない量の本を読む読書家であるということ、また仕事をセーブしてでも私立の超難関校に受験して合格したこと、演技に対しての関わり方がとてもストイックで、なおかつ天才的なことなど、、
僕は自分で自分をダメな大人だと自覚しているからこそ、もはや彼女のことはファンを通り越して、尊敬の域に達している。

なので、もう高校生になった彼女のことを「ちゃん」で呼ぶのはあまりにも失礼なので、ここからは 芦田愛菜さん と呼ぶことにします。本当なら、様付けしたいくらいなのだけれど。

昨年秋、そんな芦田愛菜さんが映画『星の子』完成披露試写会で話した「信じる」ということについて。
これは当時、とても話題になりましたよね。

https://youtu.be/p1bsJ6HeolY

(動画内、1:07くらい〜)「その人のことを信じようと思います」って言葉、結構使うと思うんですけど、それってどういう意味なんだろうって考えた時に、
その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とするその人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかなっていうふうに感じて。
だからこそ、人は「裏切られた」とか「期待していたのに」とか言うけれど、別にそれは その人が裏切ったとかそういうわけではなくて、その人の見えなかった部分が見えただけであって、その見えなかった部分が見えた時に、あ、それもその人なんだって受け止められる、揺るがない自分がいるっていうのが、信じられる(という)ことなのかなって
でも、その「揺るがない自分」を持つことってすごく難しいじゃないですか。だからこそ、人は「信じる」って口に出して、不安な自分がいるからこそ、例えば成功した自分だったりとか、理想の人物像にすがりたいんじゃないかなって思いました。

彼女のこの言葉を聞いた時、僕も本当に目から鱗だった。人と人の間で生きる、つまり人生の中で大切なことを、16歳の少女から教わった。

自分自身も、過去の経験として、その人から勝手に思い抱かれていた僕のイメージとは違う姿を見せてしまったのだろう、いきなり罵詈雑言を浴びせられ、一方的に去られたことがある。
いや、俺は前と何も変わっていないのに⋯と、愕然とした記憶もある。

そういう実際の人付き合い上ではなく、SNS上では、会ったこともない人からそういうこと言われるのはよくありますけどね。この場合はもう「いや、そっちが勝手に都合よくイメージづけていただけじゃないか」と、諦めるしかないのだけれど。

ただその反対に、自分が気づいていないだけで、自分も誰かにそういう思いを勝手に抱いて、勝手に反感を持ったり、ひょっとしたら誰かを傷つけてしまうこともあったかもしれないなと、彼女のこの言葉を聞いて思わずハッとさせられました。

絶対そんなことない、と言い切るのはとても利己的だし、たぶん自身を客観視できていない。きっとそうしてきたこともおそらくあると思っていたほうがいいよなと、これまでの自分を省みる機会にもなった。

そんな彼女が話したこの言葉を日テレ「スッキリ」が当時特集していて、コメンテーターのロバート・キャンベルさんが彼女について話した内容が、どなたかのYouTubeにアップされていたのを最近発見しまして。

上で紹介した動画の中の、後半部分がそれです。キャンベルさんの解説がとても美しくて素晴らしかったので、衝動的に文字起こししました。

ロバート・キャンベルさんの解説(動画内、9:43くらい〜)

(芦田愛菜さんの言葉は)
(彼女の)経験と知識が合わさって、はじめて到達できる言葉だったなというふうに思います。
よく知ってる人でも、突然牙を剥いてくる人がいるってこと、ありますよね。本当に、存在の根まで揺らされる。
あぁ、こんなことあるのかっていうことを、我々も人生の中で大人になると経験することがあると思うんですね。
そこで、、哲学は西洋のものですけれども、東洋では孔子という哲人がいまして、こういう言葉を残しています。
「人心の同じからざること、その面の如し」
要は、似たような顔の人はいるけれど、よく見るとみんなそれぞれ違う。それと同じように、見えないけれども心はみんな十人十色。だから、自分と同じだと思ってても、生まれ育った環境や資質によって、出方が違う。
それをどういうふうに自分は渡り合っていくのか。自分づくりということをそこからどうするのか、という思想なんです。
実は芦田さんは、人のことだけではなく、自分自身も明日、人を裏切るかもしれない。信じられていたのに、裏切るかもしれないということを見抜いて感じて、こういう言葉を言ってるのかなと思うんです。
つまり人はそれぞれ違うので、どうやって⋯本を読むことですとか、技能を身につけることですとか、丁寧に人と交わる(こと)をすることによって、自分をつくってく。
先ほど、哲学がちょっとわからないという話があったんですけど、哲学で言うならば「実存主義」ですね。戦時中、すべての価値が崩壊してしまう、人が人を殺し合う、裏切り合う、何も信じることがないというところから、フランスのサルトルという哲学者をはじめ、広めていた哲学なんですね。
つまり我々は一人ずつ、自分の庭を耕す。まず自分のエリアというものをしっかりと持って、それを通じて、語り得ない、わかり得ない他者と、なんとかそれでも愛おしく思い、生きていくという強さ、社会をどういうふうにつくるかと。芦田さんは、そのことをたぶん意識してないはずだけれども。
人は違う、人は変わるということ。自分の中ではそれをどういうふうに向かい入れるかということを、よく考えている若い女優さんであり、女性だというふうに思って感心しました。
自分を信じるということは、人から見ればすごく意固地になっていたり、凝り固まっていたり、というふうになるかもしれない。
(僕にとっては)揺るがない自分がいるということは、なかなか難しいことだから。
(自分を)信じる信じないということは、僕は問題ではないような気がするんですね。
自分は揺らぐ。常に揺れている自分がいて、人と常に同期しようとしても、なかなかこれはできないわけですよね。
(人と)同じようにはできないけれど、そこをどうやって、それでも埋めていくのか。
それは知識であったり経験であったり、妥協であったり⋯ということを、同体として彼女が生きてる。
生きることを見抜いたというか、感じてるということ。僕はすごく大事なことだなと思うんですね。

〜 中略 〜

(MCの加藤浩次に対し)
加藤さんは「自分を信じてる。ブレない」ということを結構、言うんですよね。僕はどちらかと言うと、まぁいろんなことをやってはいるんだけど、どこかで後ろに「いや、ちょっと違うんじゃないかな」とか思ったり、やっぱり自分を疑ったりする。
結局それは、どっちがいいかとか悪いとかということはないと思うんです。でもそれは、やっぱり、それでももうちょっと人に近づくとか、近づけるように自分で準備をするとか、頑張るとか⋯
頑張れない時はなんとか充電をするとか、そういう思いが続く(ことが大事)っていうこと

キャンベルさんのおかげで、なんだかとても腑に落ちました。

「生きるということを見抜いた」これ、すごい言葉だよ本当に。

何かの本で読んだけど、哲学者とは、有名な偉い人とか昔の偉人だけではなくて、日常にある身近な物事をその人ならではの言葉で言い換えられる人を、哲学者と呼んでいい、と。

つまり「信じるということ」を自分の言葉で言い換え、人々の心を揺り動かした彼女は、すでに哲学者の域に達してるというわけだ。

芦田愛菜、やはり只者ではない。よく言われてるけど、本当に人生3周目くらいなんじゃないだろうか。もしくは前世が「迫害されながらも本を読み続けることだけはやめなかった隠れキリシタンの悲劇の娘」とか、本当に細川ガラシャだったとか

https://youtu.be/oQiA0B8VQRY

この動画内で、岩城滉一さんが彼女を絶賛してるその熱が、とても印象的。

名優・岩城滉一に「今回ほど、役者を辞めたいと思ったことはなかった」と言わしめ、名脚本家・野島伸司に「僕が生きてる限りに出会う、一番能力の高い女優」と言わせる女優がまだ16歳という奇跡に、僕らは感謝すべきなのだ。

早いとこ人間国宝にしたほうがいい。


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