気が利く人は好かれる ~どこで線引きするのか?~
当たり前のようなことだと思う。
「ちょっと辛いな~」と感じたときに、「手伝いますか?」なんて言われたら、気が利くな~と誰しも思ってしまう。
私が働いていた飲食店では、ある意味助け合うことが当然とされていた。「助け合うのは当然だろう」と思うのだが、ちょっと違う。書くのは難しいのだが、まさに上に書いたように、「ちょっと忙しいな~」と思った時にスッとヘルプに入ってくれた。
そんな助け合いが当然とされた職場では、助け合いが出来ない人は「使えない」烙印を押されてしまう。特段忙しくもない時は別に手伝って貰わなくても問題ないのだが、そんな時も手伝ってくれる。私の常識から考えると良い職場だと思うのだが、行き過ぎると、そんな手伝いが出来ない人は陰で冷たい目で見られてしまう。
この文章を書いていてふと思ったのは、日本人の接客も似たようなものを感じる。海外から見ると当たり前の水準が高いと聞く。
そんな日本人が海外に行ったときに接客でショックを受けないのは、「海外だから」と割りきっているからだと思う。決して「あの国の接客はダメ」とはならないのではないか?と思う。どちらかと言えば、「この国の接客はこういうものだ」と納得するのではないだろうか?。しかし、日本国内では「ここの店員は使えない」という話が出てくる。
これは、渡航先の国がどういう接客がデフォルトなのかを知らないからであって、日本では分かりきっているから、その上で良し悪しを判断する。
私も書いていて飲食の仕事と接客の何が似ているか分からなくなってきたので整理したい。
飲食店の話では私の常識に対して、このお店の「助け合いの質が高い」と感じた。
第2に接客では、海外に比べて日本の接客は「サービスの質が高い」と感じた。そして、海外に行けばそこのサービスに疑問は持たずにこういうものだと理解することを書いた。
自分の中での比較か、世間一般での比較なのかの違いである。
接客で書いたように、海外に行けば「海外の接客はこういうものだ」と理解するのを飲食店仕事に転用するなら、店舗が変われば「ここの店舗の助け合いの質はこんなものだ」と理解するだけではないだろうか?
実際に、仕事に関わらず、自分の所属組織が変われば自分の演じる役割も変わる。あるいみそこに馴染むような行動を取る。そこでの空気を当たり前とし、「自分ならどうするか?」を考える。
書いていて、迷走してきた気がするので結論だけを書いて締めたい。
飲食店の話に戻ると、文句を言い、「使えない」烙印を押す人はこの店舗の当たり前に対して、仕事ができているか?出来ていないか?を判断してその人を評価する。しかし、私が感じる世間一般を基準とするなら、気が利かないのは当たり前であり、別に「使えない」わけではない。なんなら普通である。どこを基準に置くかで見方が変わるのではないか?と思う。基準を置くにしても自分の最高のパフォーマンスが基準値ラインの最高点だろう。それ以上が基準の組織に入ると、自分の当たり前基準を引き上げるために必死に追い付こうとする。そうなると、「苦労は買ってでもすべきか?」的な問題に入ってきそうなので、この辺で止めておく。
とにかく、当たり前基準の持ち方で世間の見方が変わる。
P.S.
当初書こうと思ったこととずれていて、タイトルが合っていないように感じるがそれなりの出来なので公開します。
個人的に、中身の考察はいい試金石になったのではないか?と思う。